活動報告ACTIVITIS
2015イエスの食卓献金・伝達大使 フィリピンツアー
イエスの食卓献金伝達大使の派遣は2年ぶり。
今回はフィリピンのマニラから少し北の山中、ブラカン州のサパンパライ、フィリピンでも最も貧しい暮らしの地域として知られ、その地で、必死に学ぼうとしている若者たちの教育の支援のために長年献身されているADFセンター(主宰者はケリー先生とミンダ夫人)へ届けた。伝達大使となった若者8名(男子1名、女子7名)(所属の教会は所沢、高崎、栃木、松が峰、取手)に加え、中嶋義晃神父も部分参加、引率は矢吹貞人助祭(事務局長)、現地では山本雅子さん(ペップオフィス責任者。宇部教会出身)の案内。
貴重な体験に満ちた旅をすることができた。
第1日目 8月17日(月)
元気に羽田に集合。フィリピン航空機でフィリピンへ向った。夕刻、マニラ空港に着き、旅の案内をしてくださる山本雅子さんと宿泊のお世話になる聖心侍女会のシスター千葉が出迎えてくださった。宿泊はケソン市のアテネオ大学に近い、同修道会の黙想の家に。
第2日目 8月18日(火)
この日のテーマ『16〜7世紀(キリシタン時代)、フィリピンと日本の交わり』。まず、長崎で殉教した宣教師聖ペドロ・バウティスタ(日本二十六聖人の一人)が日本に向かうまで祈り過ごしていたその名もサン・ペドロ。バウティスタ教会と祈りの祠を訪れ、長年マニラで手話教育に携わっておられる佐藤宝蔵神父さんからお話を伺うことができた。
ついで、高山右近がマニラへと追放されたとき、その船でマニラへ里帰りしたマリア像「ラ・ハポネーサ」が今も大切に保管されている聖ドミンゴ教会を訪れ、気高さの感じられる大きなマリア像だった。
ついで、チャイナタウンへ向かう。そこにあるビノンド教会はフィリピン人の最初の聖人で聖ロレンソ・ルイスが属していた教会だったとのこと。(聖トマス西と15殉教者の中の一人)。彼は犯罪の嫌疑をかけられ、通詞として司祭に同行し、殉教することとなった。
最後は、信仰のためにこの世の栄光を捨てた高山右近のゆかりの地を訪れた。マニラについたとき、上陸した船着き場と城壁の門、その死までわずか2か月だったが住んだ館の跡や祈った教会の跡、右近とともにマニラへ流され、マニラで生涯を終えた京都・八木の城主内藤如安の記念碑、プラザ・ディラオ(パコ駅の前)に建つ凛々しい右近の像を訪れ、帰路に就いた。
夕方、6時からは中嶋神父様がミサを立ててくださり、みんなで、その日一日の恵みに感謝することができた。
第3日目 8月19日(水)
この日のテーマ『太平洋戦争の戦場となったフィリピン』だった。70年前は想像もつかない世代の若者たち。まず、最初に訪れたのはサン・オーガスティン教会。日本がフィリピンを占領していたのは1941〜1944までの短い期間。マッカーサー率いるアメリカ軍がレイテ島に上陸、日本軍との激しい戦闘が行われるようになって、この教会は捕虜となったフィリピン人たちの収容所となったという。怪我や病気の捕虜たちのために、日本軍の慰安婦となった女性たちはどこからか薬や包帯などを手に入れ、届けに来たという。
ついで、すぐそばにある「メモラーレ」を訪れた。戦闘のためにマニラの市民たちが何十万人も殺された慰霊のために建てられた、ピエタそっくりの記念碑。戦争というものがどんなに人々の生活と命を破壊しつくすものか、マニラではたった70年ほど前に、日本軍がその悲惨をもたらしたことを知り、主の祈りとアヴェマリアを皆で唱え、亡くなった方々のために祈った。
次に訪れたマニラ大聖堂は戦争で破壊されていたものが、日本から送られたセメントを使って再建されたという歴史を聞き、そのことを感謝する銘盤がカテドラルの壁に嵌められているのを知って、驚き、また心を打たれた。
続いて、サンチャゴ要塞を訪れ、日本軍が潮の満ち干を利用して、捕虜たちを処刑した水牢を見学した後、フィリピンの建国の英雄であるホセ・リサール博士の祈念館を見学した。
強行軍の最後はマニラ湾に面して建つマラテ教会の博物館であった。そこには、マニラが戦争によって焼け野が原となった沢山の写真が展示されていた。この教会ではコロンバン会の司祭が6人、日本兵によって殺されたという。そその写真は、まるで、東京大空襲や広島、長崎の写真を目にしたように思えた。若者たちにはどのように思えただろうか。
第4日目 8月20日(木)
この日は前日の続きといってよい、『戦争体験者、フェルディナンド神父にお話を聞く』というテーマであった。フェルディナンド神父は現在86歳。70歳になるまで、広島にあるイエズス会経営の広島学院で教鞭をとっておられたという。流ちょうな日本語で、淡々とご自分の生きてきた道、戦争によって苦しみながらも、イエズス会の司祭になったとき、父親のいのちを奪った国日本へ渡り、日本の青少年に、神の愛について知らせたいと、青少年の教育に捧げた生涯を分かち合ってくださった。神父さんはハンセン病の病院の島として有名なクリオン島に生まれたという。父はその病院に勤務する看護師だったという。やがて、こどもの教育のために島を離れ、マニラ郊外のハンセン病の患者の村タラに勤務場所を変えたが、戦争がはげしくなり、クリオン島の患者さんたちに薬が届かなくなったことを知った父は、危険を顧みず、貨物船に乗って、クリオンを目指すも、日本運の潜水艦に撃沈され、亡くなってしまわれたという。その時は、神さんなんてあるものかと思ったりしたが、やがて、司祭となり、父を殺した国日本の若者のために、その生涯を捧げて悔いない神父は、最後に、若者の質問に答えて、神様がもう一度人生を下さるというなら、もう一度同じ人生を歩みたいとお答えくださったのを聞いて、深く心を打たれた。
第5日目 8月21日(金)
その日は、いよいよ、イエスの食卓献金を伝達するサパンパライの町へ向かう前に、午前中はマニラのスラム近くにあるマザーテレサの「死を待つ人の家」でのお手伝いに向かった。まず、日本人シスタードロテアさんから、マザーテレサへの神様の招きや、マザーが生涯、十字架の聖ヨハネと同じ「信仰の闇夜」の中で、祈り続け、働かれたかのお話をしてくださり、心を整え、お手伝いの仕事を手探りながら行った。おじいちゃんやおばあちゃんの伸びた爪を切ってあげたり、自分ではうまくいかない方の食事のお手伝いをしたり、大量の洗濯物を手洗いしたり、食後のお水を配ったり、ままならない英語で話しかけながら、あっという間に時間が過ぎていた。
中嶋神父様がこの日の夕方、日本へ帰国ということで、また、サラマッポ会で矢吹がお世話になった西本神父さまの命日でもあり、日本から千原神父も見えているということで、久しぶりの日本食でお昼を楽しんだ。
昼食後、中嶋神父様はタクシーで空港へ、わたしたちは黙想の家のバンに乗って、サパンパライのADFセンター(主宰者はケリー先生とミンダ夫人)へと向かった。その途中、イエズス会の修練院の中にあるクリプトを訪ねた。そこに葬られている一つの墓の中に、高山右近と内藤如安が眠っていると信じられているのだという。
ADFセンターに着くと、すでに学生たちが待っていて、一人ずつ、別れて、ホームステイするお家へと向かった。不安そうであったが、みんな学生たちに案内されて、散って行った。
第6日目 8月22日(土)
朝になると、どんなホームステイを体験したのか、学生たちと連れ立って、ADFセンターに戻ってきた。若者たちのその日のスケジュールは、学生たちに案内されて、サパンパライの町を一緒に見せてもらうことになっていた。なかなかハードなスケジュールだが、これは若者にとっては、直接に人々の生活に肌で触れる絶好の機会で、夕方前には、元気で明るい表情で、どのグループもにぎやかに帰ってきた。
夕食は、日本人が指導役を務めて、フィリピンの人たちが大好きな日本食、トンカツとコロッケを作った。日本から持って行ったトンカツソースをかけながら、楽しい夕食を共にした。
第7日目 8月23日(日)
ADFセンターで学生たちと交流会。雨模様だったため、ケリー先生が創立し、今は寄贈されて教区の学園となっているサパンパライ・アサンプション大学の講堂で、様々なゲームをして思いっきり楽しんだ。
昼食後は、短い期間の交流だったが、それを振り返り、感想などを互いに分かち合った。
そして、交流会がいよいよ閉じるとき、伝達大使の代表から、イエスの食卓献金が渡された。
ケリー先生はそれがサパンパライの町の貧しくも向学心に燃える若者たちの教育のためにどれほど大きな助けになるかに触れ、そこに集った学生たちに、大学卒業まで、何も心配することなく、安心して勉強に励むよう語りかえておられた。
第8日目 8月24日(月)
朝食後、別れを惜しんで、登校前にわざわざ寄り道してきた学生たち、そしてお世話になったケリー先生ご夫妻に別れを告げて、長距離路線バスに乗って、黙想の家の近くまで戻り、迎えの車で妄想の家に無事帰着した。午後、最寄りの巨大なショッピング・モールへ出かけて、やっとお土産などを買うことができた。
第9日目 8月25日(火)
早朝5時、お世話になった黙想の家に別れを告げて、マニラ空港へ。マニラ空港8:55発のフィリピン航空機で、帰国の途に。午後2時に羽田着。再会を願いながら、それぞれが帰路に。
(矢吹貞人助祭 記)