カトリックさいたま教区/CATHOLIC SAITAMA DIOCESE

司教メッセージMESSAGES

←前の年 2020年  次の年→ 

年間第27主日 マタイ 21・33-43

2020.12.4 (日)
アッシジの聖フランシスコのお祝い

 この日曜日、年間27主日の説教では、パンデミックの時を生きるための助けになる、いくつかのことを、聖フランシスコの生涯を通して分かち合います。

 この聖人はイエスに従い、イエスに倣い、「もう一人のキリスト(Alter Christus)」と呼ばれました。
 聖フランシスコは、カトリック教会が困難に晒された時を生きた聖人であり、教会に大きな貢献をした人です。相続するはずだった遺産を放棄し、物質的な物より霊的なものを、人生で最も大切にしました。
 もし、皆さんがこの聖人の伝記を読まれたら、感動なさることをわたくしは確信します。そして、読み進むにつれ、回心しなければならないと感じ、もっと良いイエスの弟子になりたくなるでしょう。聖人たちの伝記に触れることは、多くの人たち、岩のように頑なな人さえも、回心させます。特にアッシジの聖フランシスコの伝記は。

聖フランシスコの1冊の本「アッシジの兄弟」
 わたくしがアルゼンチン、パラグアイの修練長だった時(1991−97年)のエピソードをお話しします。ラ・プラタ市のサレジオ修練院の図書室に、読むことを禁止されていた1冊の本がありました。それはイグナチオ・ララニャーガ司教著「アッシジの兄弟」(アルゼンチン、パウロ出版社、1997年、全416ページ)でした。その表紙には、アッシジの大聖堂にあるチマブーエのフレスコ画が載せてありました。それは、この聖人の本当の姿を現しています。

修練院では、どうしてこの聖人の本を読むことが禁止されていたのか
 最初の答えとして、修練者はサレジオ会員になりたいのですから、まず、自分の会の創立者であるドン・ボスコに対して情熱を傾けなければならない。ドン・ボスコもイタリア人です(トリノ1815−88年)。そして修練院には読む本がたくさんありました。わたくしはアルゼンチンのサンタ・フェのマヌーチョの町で修練期を過ごしました(1975年)が、この本は当時はまだ出版されていなかったため、読みませんでした。もし、出版されていたら、確かに読んでいたはずです。

 思い出しますと、アグスティン・ラドリザニ神父がネウケンの司教として任命されたばかりの時、わたくしはラ・プラタへ同行しました。彼自身からこの本についての話、また、彼の本棚にその本があることを聞きました。彼の司教叙階の後、わたくしが院長と修練長を兼ねていた時、一人の修練者が、何度も読まれて古びている本を持ってきました。その本が「アッシジの兄弟」でした。皆さんにお願いがあります。わたくしの友であり兄弟であるアグスティン大司教様は、9月2日に75歳で亡くなりました。どうかお祈りください。新型コロナウイルスで亡くなった、最初のアルゼンチンの司教でした。

 わたくしは修練者にその本を読む許可を与えました。それは、サレジオの創立者であるドン・ボスコと召命の共通点は何かを把握するために、1つの挑戦を投げかけたと言っても良いでしょう。もしアッシジのフランシスコについて読むなら、ドン・ボスコを2回読まなければならないのではないでしょうか。そして、実りがありました。それぞれの時代において、どちらも本当のイエスの弟子であって、カリスマ、生活スタイルとそのメッセージは、長い年月を経た今に至って有効なのです。

アッシジの聖フランシスコの生涯について
 この聖人については、インターネットなどで多かれ少なかれ私たちは知っています。短いフランシスコの生涯、深い霊性、そして教会に対する長い影響を読むことができます。
 フランシスコ・ベルナルドーレを変えた2つの出来事を強調したいと思います。まず、敵の兵士たちがフランシスコを捉え、牢屋に入れた事。もう1つは、ある皮膚病患者との出会いです。

 フランシスコは裕福な親から生まれました。思春期に彼は、金と、楽しむことだけを望んでいました。パーティーが大好きでした。しかし1202年21歳の時、フランシスコは戦争に行き、捕らえられて牢屋に入れられます。そこでは考える時間、祈る時間がたくさんあったのです。

 獄中、フランシスコは「金で幸せを買うことはできない」と気付きます。そして、その後、彼は重い皮膚病患者に会いました。皮膚病の傷からは膿が出ていました。人々はその患者から離れ、避けていました。しかし、フランシスコは彼を自分の腕の中に抱きしめました(接吻したとも言われています)。自分以外の人間の中に、神の美しさを見つけたのです。フランシスコの人生は、その時点で変わりました。

 その後、フランシスコは自分の持っているすべての金を、貧しく、困っている人に分け与えました。路上を、裸足で歩きながら福音宣教し、祈りました。彼に、あるグループの人たちが付いてきました。フランシスコは彼らのために生活のルールを与えました。彼らが、最初のフランシスコ会員になったのです。その後、クララ会を創立。それは女性たちのための修道生活の場でした。1212年、スペインへ行きました。そこに住む人たちを刷新させるためで、同じように、イスラムの人たちの回心のためにエジプトにも出向きました。

彼のメッセージと列聖式
 フランシスコが弟子たちに願ったことは、地球の美しさ、その創造の美しさを賛美し、被造物の歌をもって神を讃えるように。何を見ても、フランシスコは神の愛をそこに見つけていました。ですから、地を母と呼びました。太陽を兄弟、月を姉妹。これら全ては、神の美しさをあらわしていました。地のすべての被造物とともに、フランシスコは「私の主が讃えられますように」と叫んでいたのです。

 1226年10月3日、彼が44歳で亡くなった時、人々はアッシジのフランシスコの美しさで神を讃えました。1228年7月16日、彼が亡くなって2年が過ぎる前に、グレゴリオ9世がアッシジでフランシスコを列聖しました。

イタリアのグレッチョ:洞穴の中の最初の馬小屋
 クリスマスに私たちが馬小屋を見る時、アッシジのフランシスコに感謝しなければならないと言われています。1220年、フランシスコは、生きた動物、1頭の牛とロバ、を使ってイエスの誕生を再現しました。フランシスコは、キリストがこの世に貧しさと素朴さの中で来られたことを、印象づけるよう求めていました。この夜のことについて、もっと知りたい方は、生きた最初の馬小屋について、聖ボナヴェントゥラ(1221−74年)が書いた歴史を読まれると良いでしょう。この聖人は、聖フランシスコの弟子であり、同年代の人でした。

 教皇フランシスコは、昨年(2019年)の12月1日、使徒的手紙「プレゼピオの意味と価値をめぐる書簡」に署名され、「キリスト者たちにこれほどにも親しまれる、馬小屋の素晴らしいしるしが、常に驚きと感嘆を呼び覚ますように」と願われました。

 聖フランシスコが書いたとされている祈りを、祈りながら終わりましょう。

平和の祈り:アッシジの聖フランシスコ
 ああ主よ、わたしを あなたの平和の道具にしてください。
 憎しみのあるところに、愛をもたらすことができますように。
 争いのあるところにゆるしを、分裂のあるところに一致を、
 疑いのあるところに信仰を、誤りのあるところに真理を、
 絶望のあるところに希望を、悲しみのあるところに喜びを、
 闇のあるところに 光をもたらすことができますように。

 ああ主よ、わたしに、
 慰められるよりも、慰めることを、理解されるよりも、理解することを、
 愛されるよりも、愛することを求めさせてください。
 わたしたちは与えるので受け、ゆるすのでゆるされ、
 自分自身を捨てることによって、永遠の命に生きるからです。
 アーメン