カトリックさいたま教区/CATHOLIC SAITAMA DIOCESE

司教メッセージMESSAGES

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四旬節第3主日 説教

2020.12.15 (日)
司教 マリオ山野内倫昭

サマリア人の女性とイエスの出会いについての黙想(ヨハネ4・5-42)

歴史の中で、特別な四旬節
今年の四旬節は2月26日に始まりましたが、日本のほとんどの司教区では翌日から、新型コロナ・ウイルスの拡散を防ぐために、公開ミサが中止となりました。
さいたま教区では、状況の深刻さに鑑み、また政府の決定に合わせて、3月29日まで中止を延長しました。3月25日に再度顧問会を開いて、期限後のこと特に、今年の聖週間をどのように祝うかについて諮問し、決定いたします。なお、茨城県水戸教会で予定していました聖香油ミサについては、特別な状況のため、信徒の皆様には申し訳ありませんが、司祭団・助祭団のみで行うことにしました。

まことの信仰、まことの祈りと宗教
わたくしがまだ神学生のとき、ヨハネ4章23節でイエスが話された、“霊と真理をもって礼拝しなければならない”の勧めの意味を分析しなければなりませんでした。わたくしを合格させるために先生を悩ませた理由は、課題も、応えなければならなかった3つの質問も、何も分かっていなかったからでした。質問はこうでした。真の神はどこで礼拝されるべきですか? どの宗教が本当のものですか、そして、真の宗教は何から成り立っていますか?
 わたくしが書いたものを再読してみると、わたくしのコメントはすべていくつかの本からコピーされたものだったことに驚かされました。先生はそれにすぐに気づき、引用した文献の表示をきちんとするようにと指示して下さったのでした。先生の指示に従って修正をした後、彼は「時がたち、もっと成熟したとき、あなたは自分が書いたことを理解するでしょう」と言ってわたくしを合格にしてくれたのでした。

“霊と真理をもって礼拝する”(ヨハネ 4・23)
この四旬節にあっては、ホセ・マリア・カスティーリョの「LA RELIGION DE JESUS: COMENTARIO AL EVANGELIO DIARIO (2020)」という本に書かれたコメントを読みながら、毎日の黙想をしています。
「すべての時代の宗教は、聖なる空間の定義とその中心の探索」という質問に答えることに関心を寄せてきました。イエスはおっしゃいました。その瞬間から、真の宗教、真の神殿、あらゆるものの中心は、ここにある、あそこにあるというのではない、人の心の中にあるのだと言われたのでした。言い換えれば、サマリア人の女性とイエスとの出会いの中で起きた出来事が、その場所なのです。外的な宗教から内的な霊性への移行、それをイエスがなさったのでした。そして、そこに、そのことの中に、聖なる場所があるのです。最も聖なるもの、それは誠実な人生と善なのです。
 「霊と真理をもって行われる」真の信仰は、私たちを神と隣人とともに生きるイエスに倣う者とし、私たちがイエスとともに生きるなら、ヨハネが語るサマリアの女性が体験したこと、すなわち、「この水を飲む者は誰でもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネ4・13-14)を私たちも体験できるようにしていただけることをわたくしは確信しているのです。

過越の道をさらに深めることへの招待:イエスとの交わりの中で生きる
今月、司祭は、すべての皆様のために毎日ミサを捧げていますが、それぞれの教会ではミサが欠けているとお感じのことでしょう。しかし、わたくしは、皆様がミサに与れなくても、イエスや教会への信仰を失うことはないと思います。時間がたつにつれ、私たちは、生活の中で何か大切なものが無くなっていると感じるようになり、やがて、ミサこそがキリスト者としての生活の中心なのだとの確信に至るだろうとわたくしは考えています。世界中の多くの場所で司祭が少ないために、ミサに与れるのは1年に2〜3回だけといった、極限的な状況の中にあっても、私たちは、ミサがなければ、秘跡とも、救いの道具ともなることはできず、特に貧しくされた人たち、助けを必要としている人々に仕えるものとなることはできないことを感じるに違いありません。なぜなら、イエスによって養われ、私たちキリスト者はキリストを証しすることができるのですから。

霊的聖体拝領
感謝の祭儀に参加することができないこの時、わたくしは、私たちの生命のパンであるイエスと一致し続けるために、毎日、「霊的聖体拝領の祈り」を捧げることを提案いたします。このようにして、私たちの中で幾分忘れられていたかもしれない霊的な献身を取り戻すことができるでしょう。