司教メッセージMESSAGES
四旬節第4主日(A年)(2020年3月22日)
2020.12.22 (日)
イエスが誰であるかを完全に発見する (ヨハネ 9・1-41)「ヨハネによる福音書」で語られていること
今日の日曜日の福音朗読では、生まれつき目が見えない人をイエスが癒されたことについて読まれました。
福音史家ヨハネは当時のキリスト者に対してだけではなく、今、新型コロナウイルスの感染が世界中に広がっているという危急の瞬間を生きている私たちに対しても、強いメッセージを発しています。
私たちは、まるで、目の見えない人、ファリサイ派の人たち、ユダヤ人、そして、目の見えない人の家族が登場するドラマを観ているかのようです。とりわけ、この男性は生まれたときから目が見えず、生きるために施しを求めていました。
ファリサイ派の人たちは敬虔なユダヤ人のグループの一つで、律法主義者とみなされ、律法を順守させる力をふるう者と見なされていました。ヨハネは、イエスの時代の高い宗教的権威をもつユダヤ人のことを「ユダヤ人」と呼びます。それは偉大な文学的美を持った象徴的な「神学的ドラマ」です。すなわち、描かれているのは歴史的な出来事の報道ではないのであって、ヨハネはイエスを信じるクリスチャンの人生がどんなものになり得るかを、歴史的な時代を超えて、わたしたちに伝えたいです。
ドラマの中心には、イエスが誰であるかを発見する盲人がいます。
物語では、目の見えない男の人が中心になります。
誰もが不思議に思うのは、生まれつき目の見えない男がどのようにして見えるようになったのかということです。彼らは何か素晴らしいことが起こり、盲人の目をみえるようにしたのは誰なのかと問うのですが、人間であるイエスがその人だとは信じたくなかったのです。
ファリサイ派が厳格に守っていた神聖な安息日である土曜日に働いていたのであればなおさらです。ましてや、街の門のふもとで施しを求めるほど貧しい目の見えない男です。隣人、ファリサイ派の人々、神殿の長など、誰もが皆、目が見えるようになった貧しいこの男に質問しました。
イエスは、彼が会堂から追放されたことがわかった後、再び彼に会われ、心を寄せられます。そして、この出会いの結果、その目の見えない人は、“完全に見える”ようになるのです。光だけでなく、神の栄光、イエスの中に神の決定的な使い、人の終末論的なひとの子、崇拝されるにふさわしい主を認めます。
障がいについての現在の世界的な状況
世界保健機関(WHO)は、障がいには、身体的な障がい、精神的な障がい、感覚に関する障がいがあることを指摘しています。世界人口の15%にあたる10億人以上の人は何らかの障がいに苦しんでいます。さらに、15歳以上の1億1千万から1億9千万人の人々が、彼らが活動している環境の中で働く上で深刻な困難があると推定されています。この数字は、人々の長寿化と慢性疾患のために増大しています。このための予算枠に対する政府からの資源の緊急な需要はいつも満たされていないため、見通しは暗いのです(先進国では35〜50%、その他の国では76〜85%の不足なのです)。視覚障がいは、その程度はさまざまですが、わたしたちの中ではよく知られている障がいです。WHOは、約2億5千万人の視覚障がいの方がおり、そのうち3千6百万人が全盲であり、残りは深刻な視覚障がい者であると推定しています。
人生を振り返り、→自問自答してみましょう。
ヨハネは、宗教的権威者たちがイエスの奇跡を認める際の特別な盲目さを強調したいようです。最も目が見えているはずの人たちは最も目が見えないものとなっているのです。今日の福音のこの側面は、私たちの時代にどのように関わっているのでしょうか?たとえば、預言者サムエルは、神が選んだ王が誰であるかを知るためにどのような基準に従ったか、比べてみましょう。神はサムエルに次のように言われました。«神は、人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によってみる»(サムエル上16・7)。
私たちの人生の中で、イエスとは何者であるかを見い出し、自分が所属する教会の共同体に加わって生きるようになった主たる瞬間はどんなときだったでしょうか?
ご一緒に祈りましょう。
* わたしたちの中にあって、神の存在を疑う人々が、イエスに従う人びとへの愛、その証となる人を見い出せますように。
* 主が私たちの目を開いてくださり、イエスが福音の中で私たちに提案された価値に従って、勇気を持って人生を送ることができますように。
* コロナウイルスの世界中への急速な拡大に直面した今、わたしたちが共に生きるのに必要な様々な規範に従うこと、また、政治家と健康の専門家がパンデミックを根絶する最も速い方法を見つけるようとする努力をさらに支持することができますように
主イエス・キリストを通してお願いいたします。アーメン