カトリックさいたま教区/CATHOLIC SAITAMA DIOCESE

司教メッセージMESSAGES

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励ましのメッセージ

2020.12.23 (木)
 司教館の小さな聖堂で、毎朝たった一人でミサを捧げています。皆様の姿がそこになくても、共にそこにいて下さって、一緒にミサを捧げて下さっていることをひしひしと感じています。一日も早くミサに与りたいとの皆様の切なる思いを感じつつ、一層心を込めて、猛威を振るう新型コロナウイルス感染拡大の一日も早い終息を願いつつ、祈りを捧げています。

 そして、学校に行くことができない子どもたちや青年たち、突然、お店を閉め、仕事を失い、住む場所を失い、それでもこの社会の一員として、拡大防止に協力しようとしていらっしゃる膨大な数の人々のことを考えると、こんな時こそ教会にできることはないのか、祈り求めながら、少しでも皆様への励ましになればと以下のメッセージをお送りします。

 わたしたちの信仰はそんなにも小さいのでしょうか
皆様の中にはこんなに長くミサに与らないでいたら、教会はどうなるのだろう、自分の信仰はどうなるだろうか、などと不安に思っておられる方も少なくないかもしれません。しかし、実は、わたくしは全く心配しておりません。それは、わたくしが南米の教会をよく知っているからかもしれません。こう言うと、叱られるかもしれませんが、南米の教会から日本に来た兄弟姉妹たちは、母国にいるときは主日のミサにきちんと与っていた人は決して多くはなかったと思います。カトリック教徒のとても少ない日本に来て、カトリック教会を見つけ、主日のミサに与るようになった彼らは、自分の信仰は消えてはいなかったことの喜びを今かみしめているのですから。
キリシタン迫害250年の間、司祭もいず、ミサもなく、秘跡に与ることもなく、信仰を失うことがなかった日本の信徒たちが歩んできた道を思えば、なおさら心配はないと思うのです。

試練の時、それは恵みの時
 確かに、わたしたちにとって、今は、思いもかけなかった試練のときと言えるかもしれません。しかし、それはまた、意外にも、思いがけない恵みの時ではないだろうかとわたくしは感じています。


 イエスはわたしたちに問いかけられているのではないでしょうか
まず、第1には、新型コロナウイルス感染拡大のために、できて当然と思っていたことができなくなりました。長い期間にわたって、
・ 主日のミサにさえ与れない、
・ ご聖体もいただけない、
・ ゆるしの秘跡も受けられない、・・・

 でも、イエス様はこう問いかけられるかもしれません。
・ 主日のミサに与れないと、御父に感謝と賛美の祈りを捧げることはできないの?
・ ご聖体はいただけないかもしれないけれど、わたしにはいつでも出会えるでしょう?わたしは、こうして、今も、あなたと一緒に歩んでいるでしょう? どうして、寂しく思うの?
・ そんなとき、どうして、あなたの御父である神に直接ゆるしてくださいと願わないの?

 こんなときこそ、自分が持っていると信じてきた信仰は何だったのだろうか、本当に主なる御父、イエス様に信頼し、聖霊に信頼して生きてきたのだろうかと問い直すことができる絶好のチャンス、恵みの時ではないでしょうか。

ですから、わたくしは次のように心から願っています。
    ・ 秘跡に与れないからこそ、秘跡の持つ意味や恵みについて、それぞれにじっくりと考えてみる好機としてほしい。
・ 共同体として、親しく交わることができないときだからこそ、交わ  ることの大切さやもたらされる恵みについて、ゆっくりと考えてみる機会にしてほしい。


気づきの恵み
 恵みの時と思う第2の理由は、新型コロナウイルス感染拡大のおかげで、わたしたちはこれまでイエスからの呼びかけにも関わらず気付けないまま見過ごしてきた多くの大切な事柄に気づけるようになりつつあることです。
・ グローバル化し、変化し続ける世界のうわべのはなやかさについ目を奪われて、フランシスコ教皇の回勅の中で話してくださったのに、「わが家―地球」は「人間のための家」であって、「すべての被造物のための家」だと気づくことができませんでした。
・ 怖い新型コロナウイルスも含めての「わが家―地球」であること  を知ることができました。
・ この「わが家」にあって、苦しんでいるとてつもない数の人々の  存在やその叫びに気付けるようになりつつあります。そして、ひとたび今回のような想定外の災禍に見舞われれば、すぐに危機的状況に追いやられてしまう人びとがどんなに沢山いらっしゃるかという現実に気づくことができました。
・ 全世界の人々が同時に同じ体験をし、同じ試練に遭遇して、改め て、互いに支え合っていく存在であること、もしその人がキリストを信じる人であれば、神に愛された家族としてキリストに共に結ばれていることをより強く深く感じるようになったのではないでしょうか。

今こそ、イエス様とともに
 ですから、今は嘆きの時ではなく、恵みの時、復活の時なのではないでしょうか。
イエスの死を悲しみ、イエスの復活を信じられないまま、人々を恐れて家の中に身を潜めていた弟子たち。なのに、弟子たちに先立ってガリラヤに行き、待っていてくださった復活されたイエス。あの弟子たちと同じように、わたしたちも立ち上がるべき時なのではないでしょうか。
 苦しい時、悲しい時、わたしたちは、十字架へ道をじっと黙して歩み続けられたイエス様のことを憶え、また、わたしたちの罪のためにご自身をお捧げ下さった十字架上のイエス様を真っ直ぐに見つめて歩みたいと願っています。そして、復活されたイエス様がわたしたちと共に歩んでくださっているに違いありません。
 そのことを皆様も信じていらっしゃることを信じています。

最後に
 今は想像することも出来ないかもしれませんが、司教、司祭、修道者、信徒、皆が何の不安も抱かず集うことができる日は近い将来必ず訪れるに違いありません。その時に楽しみにしていることはたくさんあります。出来るだけ早くに皆様の教会を再訪し、今の試練を共に手を携えて乗り越えた体験を糧として、一緒に祈りながら、どのようにすればわたしたちはキリストのうちに一致できるか考えてみたい、と夢を膨らませています。

 どうぞ、これからも一層、神のいつくしみの心に信頼し、すべての方々に思いを馳せながら、特に、医療チームの献身の甲斐もなく、亡くなられた方々のために永遠の安らぎを祈り、感染し、今なお苦しんでいらっしゃる方々の速やかな回復と世界的な流行の一日も早い終息を願い、聖母マリアの取り次ぎを願いながら、父である神に祈りましょう。