カトリックさいたま教区/CATHOLIC SAITAMA DIOCESE

司教メッセージMESSAGES

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聖霊降臨の主日 ヨハネ 21・19-23

2020.12.31 (日)
聖霊降臨 今日、どのように教会の誕生をお祝いするのでしょう?

 今日は5月の最後の日曜日、聖霊降臨をお祝いしています。しかし、例年と同じではありません。つまり、多種多様な文化や言葉が集う、私たち、さいたま教区のいつもの姿は見当たらないのです。5月25日の月曜日、政府から緊急事態宣言解除のお知らせを受けました。しかし、私たちの教区の小教区では公開でのミサや集まりはまだもう少しの間開かれない状態が続きます。葬儀の場合、故人の家族と典礼チームで調整し、主任司祭が「3つの密を避ける」物理的条件を満たすのであればミサを行うことができます。

 聖霊降臨により教会がどのように誕生したか、ルカの福音書についてコメントする前に、皆様の心の深いところで聖霊の現存を生きるように一人ひとりを招きたいと思います。私たちの心の内面で、神との本当の出会いと霊的回心が行われるのです。

 今年は、灰の水曜日をもって四旬節が始まった直後から、教会として公開のミサの自粛(“en cuarentena eclesial”)が始まり、今日に至るまで、私たちは集まって共同体としてともにミサを捧げることはできないでいます。最初は、ある人にとっては霊的レベルでのバケーションになったかもしれません。祈りや神の言葉を横に置いて、この新しいスタイルに快適さを感じながら。しかし、他の多くの人にとっては、信仰生活をもっと真剣に受け止め、ロザリオの祈りや日々のみ言葉を個人的に黙想しながら、内的生活を深め養うことになったのではないかと思います。この姿勢のおかげで、復活されたイエスが自分たちの生活の中に現存している確信が深められたのです。それは決まった祈りを唱える時だけではなく、仕事をしている時や食べたり飲んだりする時、歩いている時、眠っている時、全ての時、聖イグナチオが言われていた「行動の中での瞑想(何かしながら神の現存に触れる)」ことを体験したと言えましょう。例えば、共同体のミサに参加できない3ヵ月間に、日曜日毎、あるいは毎日、個人として祈る必要性を特別に感じ、神と一致し、福音書の中でのイエスの言葉を思い起すことが出来たかもしれません。あるいは、多くの人は、働く日に寝る時間をもっと取れたのではないでしょうか。神様のお陰で、多くの職場で仕事が休業にならず、普通に給料を受けられていることを知っています。

 しかし他方、悪魔が自分の国のために有利ななりわいをしたかもしれません。霊的な生温さに陥らせること、あるいは、神と一致する内的生活は必要でないと信じさせたこと、すなわち、公開でのミサがなかったことを言い訳にして、神から来ているコンセントを外したように、信仰生活を養うためのエネルギーを充電しなかったかもしれません。復活されたイエスの霊がラオディキアの共同体に注意した言葉、警告した言葉を再び聞くことが大切だと思います。それが私たちのためになると思います。「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。」(黙示録3・15−16)

ルカによる使徒言行録2・1−13の語り
 使徒言行録の最も大切な出来事がこの箇所で語られています:聖霊降臨あるいは教会の誕生です。ルカのこの箇所は二千年前に書かれたにも拘らず、今も新鮮さと現実性を保っています。このことは過去の出来事を語っているだけではありません。すなわち、「聖霊の最初の訪れ」ではなく、今の人々や私たち共同体に注がれる聖霊の働きを読み取り、語りのモデルとして利用することができるのです。

 第一に、ルカは、ユダヤ人にとって意味ある日を最初の聖霊降臨として勧めています。復活をお祝いした7週間後、すなわち50日、ギリシャ語ではペンテコステス(五旬祭)に当たります。シナイ山でのユダヤの民と神が交わした契約を思い起こす日でした。これがルカの最初のメッセージです:聖霊の訪れは、神とこの地上の全ての人々の新しい契約をスタートさせる。それに続く語りの最初の舞台を紹介します。:共同体は9日前からイエスの母であるマリアと家に集っていた。聖霊は来て、彼ら全ての人を捕らえらえた。

 このような特別な出来事をどのように語るのか。ルカは旧約聖書の中で神の訪れを描く伝統的なイメージを利用しています。音について、家のすべてに響き渡った激しい風のような音、ギリシャ語では風と霊を表現するためには同じ単語を使っています。その後、そこにいる人たちに、舌の形をした炎がそれぞれに分かれてとどまり、弟子たちは聖霊に満たされて他の国々の言葉で話し始めた。

 次に舞台が変わります。この物音を聴いて集ってきた大勢の人の前に現れています。様々な国から来ている人たちは、その人たちの故郷の言葉で弟子たちが話していることに驚く。
ルカが「様々な国の群衆」と強調しているのは、福音書が全ての国々や全ての文化に開かれていることを表しています。信仰は一つですが、イエスの福音は違う文化を尊重しながら受肉していなければなりません。必要であればそれを清めて、もっと良いものにしていく。この語りをルカは皮肉っぽく続けています。話している彼らは酔っ払っていたと、ある人たちは証言しています。確かにキリスト教は神の国の訪れを宣言するイエスの弟子たちから生まれました。この霊的な働きは、聖霊が大勢の男と女を回心に招き、彼らが復活されたイエスの生き証人になることによって、確かなものになっていったのです。私たちも、現在の社会の中で同じ熱意を持ってキリスト者として生きていけるように、次のように繰り返し祈りましょう。

「聖霊、来てください。あなたの愛の火を私たちの心に燃え立たせてください」。