カトリックさいたま教区/CATHOLIC SAITAMA DIOCESE

司教メッセージMESSAGES

←前の年 2020年  次の年→ 

キリストの聖体 ヨハネ6・51-58

2020.12.14 (日)
 「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる。」(申命記8・3)
 今日はイエスの御からだと御血のお祝いをしています。伝統的にキリストの聖体のお祝いとして知られているように、これはベルギーのリエージュの町で始められ、1246年に教皇ウルバノ4世がカトリック全教会に指定されたお祝いです。その歴史についての短いコメントと今日の聖書の黙想をもって、わたしたち個人と共同体生活にとってのご聖体の意味と重要性を、少しでも深めることができるようにと願っています。

このお祝いの歴史
 カトリック教会でこのお祝いがどのように生まれたかを知るために、聖女ユリアナ(Juliana de Mont Cornillón)のことを話しましょう。彼女は修道院の院長でした。若い時からご聖体に対する強い熱意を持ち、教会で聖体の特別なお祝いがあることを願っていました。この望みは教会についてのある一つのヴィジョンを見て、より強くなったのです。満月の中に黒い染みが見えました。それは教会にこの祭日がないことを意味していると彼女は解釈しました。このヴィジョンをロベール司教に伝えたところ、この司教は1246年に一つのシノドスを呼びかけ、聖女ジュリアナが伝えたメッセージについて相談するために司祭を招集しました。その結果、最初の聖体のお祝いが翌年、三位一体の主日の次の木曜日に行われました。その後、一人のドイツ人の司教がこの習慣を知り、ドイツ全体に広げました。

1264年、ローマの北部にて
 ひとりの司祭がミサを捧げた時に、聖変化に対しての疑いの気持ちを持ちました。しかし、ミサの中で、聖変化されたホスチアを割いたとき、そこから血が滴り、コルポラーレを染めていったのを見ました。この聖遺物は現在オルビエントにあります。ミサでカリスとパテナを置くためのコルポラーレと、血に染まったボルセナの祭壇の石を見ることができます。教皇ウルバノ4世はこの奇跡に動かされ、また幾人かの司教たちの願いによって、聖体のお祝いを全教会に広めようと、キリストの聖体の祭日を聖霊降臨の8日後の木曜日に制定しました。現在では、日本を含め多くの場所で、三位一体の主日後の日曜日にお祝いされています。

パドバの聖アントニオ:リミニの奇跡 (1227年)
 この聖体の奇跡はパドバの聖アントニオによって行われました。聖女ユリアナが聖体のヴィジョンを持つ20年前のことで、それはパドバから南に150キロにあるリミニの町での出来事でした。彼は、街の悪党のボノヴィロから、本当にイエスが聖体に現存されていることを実証するようにとの挑戦を受けました。最も古い聖アントニオの伝記にはボノヴィロがしつこく(“La Asidua”)アントニオに問いかけた確かな言葉があります。「修道者よ(!Fraile)、皆の前で私はあなたに言う、私は聖体を信じます。もし、私のらばが、3日間の断食の後、私があげる大麦ではなく、あなたが差し出すホスチアを食べるなら」と。そして、らばは、断食のために疲れ切っていたにも拘らず、聖変化されたホスチアの前に身を低くし、大麦を拒否したのです。その日からボノヴィロは聖アントニオの最も活動的な協力者になりました。

今日のみ言葉についての短いコメント
 申命記には、約束の地に入る前のモーセの口を通して、民を前に行われた3つの大きく盛大なスピーチのことが記されています。ですから、ある人たちは申命記をモーセの遺言とみなしています。ここにモーセの最後の言葉、熱意に満ち、心のこもった深い霊性の言葉があります。モーセは過去の記憶を思い起こし、それを各世代ごとに意味づけしているのです。

 今日の最初の一節は「思い起こしなさい。」という言葉と共に語られます。思い起こすとは、栄光ある過去と繋がるため、思い出すことです。過去は信仰や救いの歴史の一部である。神はこの民の、ある時だけに訪れたのではなく、常に共にいてくださった。喜ばしい時も悲しい時も、見捨てられたことはない。荒れ野での苦しい試練の時は、成熟するため、信頼するためであり、人間の支えではなく、神のみに生きるために必要であったもの。荒れ野は純粋な信仰のシンボルです。人にとって基本であり、緊急性を持った飢えは、全面的に私たちを満たす神への信仰と信頼を測るための試練になりました。その後、物質主義と裕福な社会の中で、イスラエルの民は神を忘れました。その時、モーセの言葉は現実に意味あるものになったのです。

 モーセが思い起こすようにと民に語った「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる。」という言葉から、断食は深い意味を持つようになりました。マタイはイエスの誘惑の場面でこの箇所を引用しています。

 今日のお祝いで、現代の荒れ野で飢えている私たちにとって、イエスこそ神が人類に与えるまことのマナであると、わたしたちは宣言しています。他の全てのパンは人間の心の飢えを完全に満たすことができず、もっと大きな飢え(お金、性、消費主義、名誉、権力など)をもたらす。そういう時に、イエスが人間となって来てくださり、ご自分の言葉と業によって、御国との契約で新しい世界を開いてくださる。そこでは全てを分かち合うので誰も困らないのです。

 最後に聖パウロは分裂の危険に気づき、コリントのキリスト者の共同体を一致に導こうとしています。聖体共同体のミサの背景から具体的な勧めを促します。実践について促します。キーワードは「キリストの御体においてわたしたちを一つに結ぶパンと杯」。パウロは、男であろうと女であろうと、互いに尊重しあって助け合う責任があると主張しています。もし、これが明らかでなければ、透明性がなく、私たちのミサは意味に欠けている。あるいは社会から離れている宗教的儀式にすぎないと。パウロは、再び、勧め、教え、そして伝え、強調します。「パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。」と。そして、ご聖体のキリストを拝領することによって、「私たちは一つの体になる。」

 百人隊長がイエスに答えた言葉を繰り返し、ご聖体のパンにイエスが本当に現存していることを宣言しながら終わりましょう。「主よ、私はあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、一言おっしゃってください。そうすれば、私の僕は癒されます。」(マタイ8・8)
「キリストの御からだ」 「アーメン」