カトリックさいたま教区/CATHOLIC SAITAMA DIOCESE

司教メッセージMESSAGES

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年間第12主日 マタイ 10・26-33

2020.12.21 (日)
「恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」
(マタイ10・31)

さいたま教区内で
 この日曜日から、わたしたちの教区では段階的に主日のミサの公開が再開されます。新型コロナウイルスの感染者は減少しましたが、それを乗り越えたとはまだ言えません。ですから、日曜日のミサを再開するために、各小教区では十分に注意しながら、一番良い方法を検討しました。6月のこの主日と次の日曜日に教会で採られるウイルス感染防止の方法は、ミサの再開の第一歩として、これからの助けになるでしょう。そして、7月からは、元の正常な状態に戻れるよう、みんなで祈りましょう。

 年間第12主日に当たる今日の説教では、初代の教会が厳しい社会情勢に向き合っていたことを示していきたいと思います。あの時代の人々が直面していたものは、今、わたしたちが向き合っていること、特に、3ヶ月あまりに亘って新型コロナウイルスのパンデミックの直中にいる、この状況に近いのではないでしょうか。

危険に対する恐れ
 福音書には、逆境にあっても共同体の弟子たちが脅かされないように、イエス様の勧めがことわざなどの形で残されています。初代のキリスト者共同体は、特に二つの陣営から来る様々な脅威に直面しなければなりませんでした。強大なローマ帝国と、抑圧するローマ体制に対して常に武力紛争を起こす機会を求めていた反体制派です。一方には軍事警察力を大規模に配備したローマ当局、もう一方は自分たちに反対する者をすべて排除しようとする狂信的な反体制勢力。この二つの圧力の中で、どちらの側にも同意されない平和と正義の提案をしようとしたキリスト者共同体は、どちらの側からも攻撃される十字砲火を浴びて生きていました。

 ローマ人にとっての正義は、ローマの法律に従わせることでした。ローマの平和は厳しい支配によって成り立っていました。植民地の人々に高い税を義務付け、それぞれの宗教にローマ皇帝自身の神々への崇拝を取り入れ、たくさんの人たちが奴隷化され、徴兵の義務が課せられました。キリスト者の共同体は、社会において自分たちの場所とその提案が受け入れられるように戦っていました。彼らが望んでいたのは、人間的共同体、連帯性をもち、他者に対する尊重と資源の公平な分配でした。しかし、そのために戦っていたのは彼らだけでした。

 反体制諸派は、ローマ帝国に取って代わる支配勢力というイメージを打ち出していました。彼らを動かしたものは制御できない暴力という論理でした。そして、自分たちに反対する人々を服従させ、自分たちのイデオロギーを押し付けていったのです。そのような集団の人たちは、キリスト者が自分たちのグループの脅威やアイデンティティを脅かしていると考えていました。ですから、度々彼らを迫害の的にし、キリスト者を自分たちの欲求不満、傲慢や不寛容を背負わせる「スケープゴート」のように見なしました。

 しかし、イエスは、全ての共同体に注意していました。本当に人を脅かしているのは軍の武器やこの共犯者の武器だけ、という考えに警告を発していたのです。本当に人を脅かすのはこの集団から来るイデオロギーであったと。「イデオロギー」とは、政府のあり方を社会に投影したものであり、資本主義者、共産主義者、テロリスト、軍国主義者などの多様なイデオロギーに世界はさらされています。このことを私たちは知っておくべきです。そして、これらのイデオロギーの流れの中で、キリスト教、厳密にはキリスト者は、自分たちがこれらのイデオロギーに引きずられないように細心の注意を払わなければなりません。そのためには、イエスの福音に注意深く耳を傾けることです。そうすれば、これらのイデオロギーに流されず、自由であり続けることができるようになります。確かに簡単なことではありませんし、そのために苦しみ迫害を受けるとなれば、相当の努力が私たちに必要されるでしょう。

教皇フランシスコとともに
 教皇フランシスコもイデオロギーの危険性について強く指摘しています。それは、政治的イデオロギーや宗教的イデオロギーが熱狂的な支持者を生みだす温床になり得ること、権力を手に入れようとし、人々の良心を操ること、特に、自分たちに味方しなければ命はないぞと脅し、人々に恐怖を植え付ける危険性のことです。

 わたしたちが神の言葉を読むとき、これらの共同体の人たちが生きていた歴史的、社会的背景を忘れてはいけません。例えば、今日のマタイ福音書はそれを反映しています。ある意味で、わたしたちの今日の共同体は、福音書に書かれているものと同じ状況にあるのではないかと思います。彼がどのようにあの現実に向き合ったかを知ることが、わたしたちがこの歴史的な「今」を、希望を持って生きる力になるのではないでしょうか。

 イエス様の言葉をわたしたちの心に刻みながら終わりましょう。「二羽の雀が1アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」(マタイ10・29−31)