カトリックさいたま教区/CATHOLIC SAITAMA DIOCESE

司教メッセージMESSAGES

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年間第13主日 マタイ10・37-42

2020.12.28 (日)
神のいつくしみをとこしえに歌い・・・・(詩編89)
自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない(マタイ 10・37―42)

 今日の福音の中で、イエス様は私たちが一人一人として、またグループとして、諦めずに十字架を担っていくことについて語っています。今日も、人類がこの2020年の数ヶ月間に亘って担っている十字架について、一緒に考えていきたいと思います。それは新型コロナウイルス感染症の流行のことです。

 わたくしの元に、インターネット、新聞や雑誌などから届く情報を通して、状況の深刻さについて意識が高まり、この感染拡大に対しての無力さを痛感しています。この説教の形での黙想が、今、何が起きているのかを理解するため、そして、家族や他の人に対して、どのように行動するべきか理解するための助けになれば幸いです。このウイルスの感染の速さと、死亡率の高さによって、国々の責任者たちは緊急事態を宣言し、必死に感染の拡大を止めようとしています。そのために、生活の様々なレベルにおいて制限をし、外出は自粛、学校が休校になり、集いの場や商店、遊び場の閉鎖が求められました。このウイルスの感染に対して、前もって確かな準備ができた国はありませんでした。

 わたくしは、感染した人たちに直に接している医師や看護師などの医療従事者、あるいは亡くなった方々を相応しく葬ってあげた人たちのことを尊敬し、素晴らしいと思っています。カトリック信者として毎日祈りを続けましょう。特に日本の司教団が提案した祈りを。

新型コロナウイルスの時を生きる
 数日前、「ラ・チヴィルタ・カトリカ(カトリック文明という意味)・イベロアメリカ39号」(2020年4月号)という雑誌が届きました。その中にイエズス会のアンドレア・ヴィッチーニ神父の「コロナウイルスの時を生きる」(32〜42ページ)という記事がありました。彼はパンデミックの時をどのように生きれば良いのかを描いている4冊の本に触れています。

 コロンビアの作家であるガブリエル・ガルシア・マルケスは、1982年ノーベル文学賞を受賞した数年後に『コレラの時代の愛』(1985年)という小説を発表しました。
その100年前、スウェーデンの医師であるアクセル・ムンテは、同じ疫病コレラの犠牲者を手当てするためにナポリへ行きました。そして、多くの手紙からなる『喪に服す町からの手紙』(1885年)を書きました。

この二つの著書では、コレラ菌から発生した疫病を背景として、深い人間性にまつわる物語が語られました。ガルシア・マルケスの小説では深く広い想像力が駆使され、ムンテの書簡集では目を覆いたくなるような現実が描かれました。二人の作家が私たちにじっくり観るように招いているのは、「疫病の時代に、私たちは不本意ながらも人間の苦しみの証人として生きることができる。最も困窮する人々を何とか助けようとし、感染の危険を認識しながらそうするのだ」ということです。一つ目は人間的な苦しみに向き合う目撃者になること、二つ目は最も困っている人を助ける希望を失わないこと、三つ目には感染リスクについての正しい認識を持つことです。今のような時にもそれらのものを持って生きることが出来る、ということを見ていただきたいのです。
 この2冊以外にも、人は疫病の時期にどのように生きるか、またどれほど苦しむかを私たちが理解できるように、文学は参考になる題材を今も提供し続けています。数ある中で、まず、アレッサンドロ・マンゾーニの『婚約者』(1827年)です。1629~1631年に北イタリアを襲ったペストについて描いています。これは、ヨーロッパで1350年の大流行を含めて数百年間も蔓延した「黒死病」の最後の流行の一つでした。

 アルベール・カミュの『ペスト』(1947年)では、1849年にアルジェリアのオラン市を襲ったペストを題材としており、もろい人間の本質と運命、どうして人間はそれ程にも傷つきやすいのか、について書かれています。コレラとペストの時、私たちは問いかけられます。私たちは何者なのか、どのように生きているのか、何が全ての原因なのか、そして、私たちが苦しんでいる時、神はどこにいるのか。答えを探しながら、思うのです。今はまず、人々のいのちを守ること、特に最も貧しい人と最も弱い立場にある人を優先的に守らなければなりません。

火急の回心―自分で決めつけている神のイメージを変える
 みんな危険な状態にいます。感染して、他の人にうつす可能性があります。感染は二つの側面を持っています。感染の被害者となるかもしれないし、逆に、感染源となるかもしれないということです。未だ、そのワクチンや特別な治療薬は見つかっていません。この感染拡大を抑えるための方法は、今、世界が持っているもの。今世界がやれていることしかないのです。

 健康は、個人として、そして、人類にとって、大変に価値あるもの、欠かせないものです。従って、市民の健康と環境を守り維持するものは優先的であり、それにあった投資が要求されます。そのために私たちは実際に取り組んで行かなければなりません。健康促進のために懸けることは、将来に懸けることです。それは基本的な医療機関の発展、初期の診断や治療を提供する医療体制を整備していくこと。様々な病気に対しての予防と診断と治療を進める新しい方法を探していかなければなりません。

 健康は、個人的善であると同時に分断できない形で社会的善であり、地域的善であると同時に分断できない形で世界的な善です。しかし、共通の善である健康は、傷つきやすく、守りと監視が求められるのです。

 神に信頼して生きる私たちは、「この世界で起きている全ての悪は神の責任である」とすることを拒否しなければなりません。神は私たちの悪意と罪のために、このような感染の形で天罰を下しているわけではありません。聖書の神、聖書を通して私たちが信じている神は「共にいる神」です。あわれみ深く、全てにおいて寄り添ってくださり、私たち一人ひとりの罪をご自分の肩に背負い、この世界に創造と被造物をくださり、癒しと解放のために働いてくださいます。同時に、人間の自由や自然界と宇宙の法則を尊重しています。

 新型コロナウイルス感染拡大の時にあって、私たちの回心は、どのような神のイメージを持っているかにも及びます。神の偶像、神でないものを神としたものがわたしたちを騙し続けてはいないでしょうか。間違った神の義、神がどうあるべきか、自分たちの物差しで神を決めつけていないでしょうか。それとも、私たちに対する愛を持って、死んで復活したイエス・キリストを見つめる、そして今から、復活と神の救いという恵みの光に導かれて、今もいつも支えられて、これからも生きていこうではありませんか。