司教メッセージMESSAGES
年間第14主日 マタイ 11・25-30
2020.12.5 (日)
娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。(……)諸国の民に平和が告げられる。(ゼカリヤ 9・9-10)
預言者ゼカリヤとは?
イエスの時代のユダヤ人たちは、勝利のメシア、自分たちの国のために戦うメシアを待ち望みました。敵であるローマ人に打ち勝ち、ユダヤ民族を解放し、それによって自分たちの律法と宗教に立ち返ることが出来るようになる、ローマ帝国に高い税金を納める必要がなくなるからです。
今日の第一朗読では、14章からなるゼカリヤ書の中のたった2節しか読みませんでした。この預言の書には紀元前520−518年にわたってのゼカリヤの預言者としての活動が書かれています。
この預言者の働きを理解するためには、あの当時の時代背景を思い起こすことが大切です。預言者としての活動は、バビロン捕囚からエルサレムに戻って17年たった時でした。神はユダの総督ゼルバベルと、大祭司ヨシュアを元気付けるために、ゼカリヤと預言者ハガイを道具として使われました。そしてかつて追放されていた人たちも戻っていました。彼らはまだ、ペルシアの政治家による禁止命令が解除されていないときに、エルサレムの神殿を再建するために戻っていたのです。ゼカリヤは2年と1ヶ月の間、彼らに対してメッセージを発信し続けました。
ゼカリヤが紹介したメシアのモデルを受け入れなかった民
預言者ゼカリヤは、追放されていたバビロンから戻ってきたユダヤ人たちが持っていた願望を描いています。この願いをベースにして、彼らはユダヤ民族のアイデンティティを作ろうとしました。それは、彼らは諸国から選ばれた神の民であること、組織化された本当の神の民になるよう励ますことでした。ダビデのような軍事的な政治家になることでも、その息子ソロモンのように外交官的なものになることでもないということです。ゼカリヤが気づき、人々に告げたのは、ユダヤの民は他のタイプのリーダーを必要とすること、後にメシアと呼ぶようになるリーダーのことでした。
メシアは軍人のような王ではなく、また政治的、宗教的権威を統一する行政官でもありません。王として軍を手に入れ、金も手に入れて司るのではなく、国を正義と平和と連帯に導くことが出来る人なのです。預言者ゼカリヤは彼に臨んだ主の言葉を受け入れ、神の民全体にそれを理想として投げかけました。
そして、新しいリーダーの基本的な姿を描いています。謙遜、正義と平和的な性格で見分けられると。謙遜は、力あるグループにすり寄るのではなく、真理の道を歩む能力として。正義は、社会的組織としてそれぞれの野心ではなく必要に応じて与えること。リーダーの平和的な性格が求められます。それは人間社会で避けられない争いを解決するための基本的な姿勢です。
しかし残念ながら、ユダヤの民は、中央集権政府を押し付けていた、マイノリティで力ある幾つかのグループの野心とぶつかりました。そうなると、ゼカリヤが提案したプロジェクトは実現に至りませんでした。当時の政治家が少数の家族に権力を持たせ、エルサレムの神殿と政治と土地をコントロールしていたのです。
ゼカリヤが伝えたメシアはイエス
マタイ福音書は、まさにゼカリヤが描いたメシアの特徴をもつ人としてイエスを紹介しています。平和的で謙遜な人。イスラエルの民、そして全人類に対する神のプロジェクトの実現に向けての熱意を持った人として。
まず、イエスはその当時に流行していたメシアニズムの理想と一致しません。なぜなら、イエスにはローマ帝国に打ち勝つ、強い軍を率いる力は一切ありません。そして、エルサレムに住みながら、神殿にあって、大祭司として、神に生贄を捧げている姿でもないのです。
マタイが紹介するイエスには軍事的、宗教的な姿はありません。ローマ人をユダヤの土地から追い出し、外的な支配からイスラエルの民の自由を得ようとする、ナショナリズム的な要望を持っていた人々とも関係がない。私たちが何度もイエスについて聞かされたこと、それはイエスは政治的、軍事的メシアではないということです。
イエスの理想は、預言者の大きな伝統に近いものです。この伝統は神の民が社会の新しいモデルとして自らを組織できるようになることを目指しています。それは平和的姿勢と謙遜が何よりも緊急で必要であったということ。平和的姿勢は社会の変化のダイナミズムをも自分のものにしますが、暴力的論理に対して屈しない。謙遜は、それぞれの時の存在の意味と、それに限界があることを認めさせ、歴史の壁を常に認識させます。
イエスの提案の全き新しさ
しかし、イエスは、民や国の社会情勢を変えるためには、王、あるいはリーダー(メシア)が特別な才能を持っているだけでは十分ではないと知っていました。イエスの提案に専念する兄弟姉妹の共同体の存在、すなわち、他のスタイルの生き方が可能であることを世界に証明すること、暴力や軍事的力を利用せず、全ての人にとって最も相応しく良い社会が築けることを証明できる共同体が生まれることこそ必要だとイエスは考えたのです。
ですから、イエスは、共同生活の「負いやすいくびき」と福音的な選択の軽い荷を身につける必要がある、と言われています(マタイ11・30)。注意しなければならないことは、イエスがここで要求しているのは全ての人に向けてではないこと。なぜなら、このダイナミズムに於いて成長しなかった人々のためではないのです。そのような人たちは、社会の流行の価値観に縛られて生きています。特に権力や金で他の人々を支配しようとすること。彼らにとってイエスの理想は受け入れがたい重荷になります。十字架の理想は受け入れられません。いつも他の人をコントロールし、社会的にのし上がっていくために、人を踏みつけている人たちにとって、柔和を求めるのは不可能です。例外として、聖霊がその人の心に触れ、新たな人に生まれ変わらせることがあるかもしれません。多くの人にとって、この回心のプロセスの出発点には強い体験があるものですが、信仰生活に成熟していくためには長い年月を要するでしょう。
二つの祈りで終わりましょう。
1)全ての民のために祈りましょう。新型コロナウイルスのパンデミックとその後遺症によって苦しんでいる全ての人々のために。現在、世界では1108万人以上の人が感染していて、死者は52万人を超えています。感染者と死者が一番多い国はアメリカで、感染はブラジル、ロシア、インドでも急速に広がっています。人類が自分たちの一番良いもの、最も深い力を出してこのパンデミックを乗り越えることができますように、主に祈りましょう。
主よ、私たちの祈りを聞き入れてください。
2)「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした」(マタイ11・25)。イエスさま、あなたは、心の貧しい人は幸いだ、とおっしゃいました。私たちの魂が打ち砕かれ、持っているものを進んで手放せるような者としてください。利己的な利益に縛られないための自由、利益を求める心から解放してください。それによって、もっと兄弟愛で結ばれた社会を築くことができるように、私たちの心を開いてくださるよう、主に祈りましょう。
主よ、私たちの祈りを聞き入れてください。