カトリックさいたま教区/CATHOLIC SAITAMA DIOCESE

司教メッセージMESSAGES

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年間第18主日 マタイ 14・13-21

2020.12.2 (日)
「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」(マタイ14・16−17)

「パンの増加」についての私の最初の印象
 9歳の頃、初めてこの話を読みました。イエス様がガリラヤ湖の畔で群衆に食事をさせたエピソードです。ナザレのイエスが神であったから、パンの増加の奇跡を行うことができた、といつも考えていました。そして、たくさんの食べ物が余ったことに驚きました。5つのパンと2匹の魚しか無かったのに5千人以上の人が食べたこと、そして、女性や子どもはその数に入っていなかったことに。

 20年ほど後、司祭叙階の数ヶ月前、助祭だったわたくしはこの出来事について説教することになりました。その時、イエスはなぜ「あなた方が食べ物を与えなさい」(マタイ14・16)と言われたのか、そのことに注目したことを覚えています。ヨハネの話の中では1人の弟子が、大麦パン5つと2匹の魚を持っている少年を見つけたことになっています(ヨハネ6・8)。しかし一番印象に残ったのがイエス様の仕草でした。人々を草の上に座らせて(春が訪れて、湖の周りにはたくさんの緑が見えていました)、イエスは5つのパンと2匹の魚をとり、「天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。全ての人が食べて満腹した。」(マタイ14・19−20)

4つの福音書の中の「パンの増加の出来事」:補い合うイメージと2つ目のパンの増加
 この物語を何度も読んだり聞いたりして、頭の中が混乱しました。神学生として、その後、司祭として、聖書を読むたびに。そして、買ったばかりの新しい本を読みながら、四つの福音書では、この素晴らしい出来事が、通常は「パンの増加」として扱われていることに気付きました。しかし何がそれぞれの福音書の特徴かを言えず、話す時には四つの福音書が言っていることを混ぜたりしていました。個人的にはヨハネ福音書に書かれているものを、細かいところまで記憶しています(ヨハネ6・1-15)。どうしてでしょう。それは、物語の最後に、人々の反応が書かれているからです。人々がこのしるしを見たとき、つまり飢えが満たされた時のことが、次のように記されています。「『まさにこの人こそ、世に来られる預言者である』と言った。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。」(ヨハネ6-14-15)

 それぞれの福音書には特徴があります。マタイ、マルコ、ルカは共観福音書ですので似ています。ヨハネ福音書にはその出来事の背景、季節についての詳細があります。季節は、過越が近付いていた、すなわち、春です。だから、そこには新しい草が生えていました。フィリポとアンドレの名前があり、イエスと話し合っています。そして、人々の反応、そのような詳細が書かれています。ですが、弟子たちがイエスを神から遣わされていると、もっと信じるようになったとは書いていないのです。
 マタイとマルコがパンの増加の話を2度記していることは知っていました(マタイ14・13−21;15・32−38;マルコ6・30−44;8・1−10)。2度目の話はイエスのあわれみの気持ちと群衆の飢えを強調しています。そして、イエスが主導権をとって、人々に草の上に座るように命じます。

メッセージのキーワード: 一番大きな奇跡は、イエスが人々に持っているものを分かち合わせたこと
 奇跡的にこの状況を解決してくれるように、イエスに頼みに行った時、共同体が飢えていることの責任を弟子たちはイエスに取らせようとしています。イエスは逆に、弟子たちに責任を取るように要求します。「あなた方が彼らに食べるものを与えなさい。」この言葉は次のことわざと関係しています。「神に祈りながら、そしてハンマーを叩きながら。」(“A Dios rogandoy con el mazo dando ”) 祈って、そして自分で努力する、つまり打ち続けるということ。「早起きの人を神は助ける。(“A quien madruga Dios le ayuda”)「神は自ら助けるものを助ける(“Ayúdate y Dios te ayudará”)
 弟子たちが考えたのは、買いに行くこと、お金が問題を解決するであろう、ということでした。イエスに否定されることによって、弟子たちはお金を見るのではなくて、持っているものに目を向けさせられます。そして、それを平等にみんなのために提供することを考えます。ですから、この物語の主題は「パンの増加」とするより、「裂く、配る、分かち合う」と言った方が良いのではないでしょうか。みなさん、どう思いますか?

黙想を深めましょう:分かれるのではなく、助け合いに合わせる時。
 イエスは、様々なところから運ばれてくる病人を癒し、飢えている人に糧を与える。福音史家は、イエスがどうしてこういうことをなさるのかを指摘しています。それは苦しみが心を動かすから、同情や憐れむ気持ちを起こさせるから。イエスが、人の苦しみに深くあわれまれたから。弟子たちは、もう遅い時間になっていることに気を取られています。イエスと弟子たちの会話は、「パンの増加」と言われているエピソードの、深い意味に入ることを可能にしています。弟子たちがイエスに指摘することは現実的で理性的です。「群衆を解散させてください。そうすれば、自分たちで村へ食べ物を買いに行くでしょう。」(マタイ14・15)すでに群衆は求めているものを、イエスから受けた。だから今は、それぞれが自分の村へ帰って、自分たちの持っているもので調達すれば良い、と言っているのです。
 イエスの反応は驚きです:「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」飢えは大きな問題です。それを無視して、それぞれが自分の村に行って解決するのは問題があります。分かれる時ではなくて、何よりも一緒になってみんなで分かち合う時なのです。誰をも除け者にしないで。
 弟子たちはイエスに5つのパンと2匹の魚しかないということを指摘します。大丈夫です、寛大に分かち合う時には、わずかなものでも充分、大丈夫です。イエスは食事を共にするために、全ての人々に草の上に座るように命じました。すると全てが変わります。飢えを満たすために、それぞれの村に別れて行きそうになった人たちが、イエスを囲んで、持っているわずかなものを分かち合うように、一つになってきます。このように、イエスは私たちが人類共同体であるように望んでいるのです。
 イエスの手に置かれたパンと魚はどうなりましたか。始めに増やしたのではなく、まず神に賛美の祈りを捧げます。この糧は神から来る、みんなのものであると。その後、裂いて弟子たちに渡す。彼らは人々にそれを配る。パンと魚は、次々に人から人へ渡っていく。このように全ての人が飢えを満たすことになりました。

祈り
 1)主よ、この教会共同体を構成している私たち一人一人が、兄弟にとってパンであり、そしてこの世の飢えている人々にとってもパンでありますように。
 2)仕事のない人、パンに飢えている人、正義と平等に飢えている人々に。彼らが助け合いを持って生きる、新しい民になるための希望を失わないように。

祈りましょう:主よ、あなたを求める心を下さい。飽くなき愛の飢え、正義、自由、私たちと全ての兄弟姉妹のために。特に今日、世界で、構造的に社会の隅っこに押し込められている人々のために。彼らに求める心を与えてください。わたしたちの飢えを、あなたの代わりの偶像にではなく、愛の神であるあなた自身に導いてください。私たちの、あなたの子であるイエス、私たちの兄弟であるイエスを思い起こしながら願います。アーメン。