カトリックさいたま教区/CATHOLIC SAITAMA DIOCESE

司教メッセージMESSAGES

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年間第19主日 マタイ 14・22-33

2020.12.9 (日)
年間第19主日A年

「主の前に立ちなさい」(列王記上19・11)。
「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」(マタイ14・27)

 まず、第1朗読に注目します。まず預言者エリヤの姿、その時代と彼の使命を中心に話していき、その後で、今の時代、つまり新型コロナウイルスに関するメッセージを考えます。おそらくそのメッセージは今日の福音と繋がりがあるでしょう。ガリラヤ湖で大きな波に悩まされている弟子たちを、水の上を歩きながら探すイエス様のように。

ホレブ山に行った私の巡礼
 わたくしの司教叙階(2018年9月24日)に向けての準備として、その直前の8月、日本サレジオ管区が企画した聖地での黙想会に参加することができました。
 イスラエルのテルアビブにあるベングリオン空港に着いた日、カエサレア・デル・マルの港を訪れた後に、ホレブ山に登りました。そして、眼下に見えるエスドレロンの美しい平原を眺めながら、預言者エリヤのことを黙想しました。そこにある教会の前に、放蕩息子が食べたイナゴ豆があったのを覚えています。その後、ミサを捧げるために山から下りて、ステラマリス修道院に行きました。そこに、「エリヤの洞穴」と言われている場所があります。(列王記上19・9)

エリヤの使命:歴史的背景(エリヤのサイクル)
 エリヤの預言者としての使命は、イスラエルを紀元前874年から853年の間統治したアハブ(オムリの息子)が王であった時に始まりました。
 列王記の作者たちはものを書く時に、今は失われてしまっている、もう1冊の本を利用しました。それは「イスラエルの王の歴代誌」です(列王記22・39)。おそらくそのような原本、あるいは預言者に関する他の書物の中に、エリヤとアハブ王の敵対は書かれているのです。「オムリの子アハブは彼以前の誰よりも主の目に悪とされることを行なった。」「シドン人の王エトバアルの娘イゼベルを妻に迎え、進んでバアルに仕え、これにひれ伏した。」(列王記上16・29-33)。アハブ王は、妻イゼベルが持ってきた新しい宗教をそこに取り入れました。それによって以前そこにあった伝統的な宗教の預言者たちは殺されてしまいます。そこで神はこの地方に干ばつをもたらし、それによって人々は重大な飢饉に見舞われたのです。

最初の使命
干ばつとカルメル:神の裁き(列王記上17章〜19章)
 突然エリヤが現れ、神が干ばつを起こすことをアハブ王に知らせます。彼は、ヨルダンのケリトのほとりのオアシスに隠れ、カラスに養ってもらいます。その後、神の命令に従ってシドンのサレプタに行き、ひとりのやもめに出会いました。その家で預言者は食べ物を増やし、彼女の息子をよみがえらせます。(この章で、聖書は初めて復活を語っているのです。)エリヤは、神の預言者たちを殺すように命じたイゼベルと対決しました。
列王記上18章:エリヤは、イゼベルの元にいた450人のバアルの預言者と対決しました。預言者たちはイゼベルに守られていました。そこで、エリヤは1つのことを提案します。生贄の牛が乗っている薪に火をつけることができるのは、どちらの神か試してみようと。祈りによって、その薪を燃やす神が本当の神であるということです。バアルの預言者たちは生贄に火を付けることはできませんでした。エリヤの神は、天から火を送り、それが濡れていたにもかかわらず、エリヤが準備した祭壇を灰になるまで焼き尽くしました。その直後、そこに集っていた人はエリヤの指示に従ってバアルに従う450人を殺害し、そして、神は長く厳しい干ばつの後に雨を降らせました。

第2の使命:天に上げられるまで(列王記下2章)
 アハブとイゼベルのエリアに対する敵意は、文化だけに留まらず、支配されていた国の人々、従者などから物を取り上げるところまで広がっていきました。ナボトのぶどう畑の出来事は、政治家や大きな土地の所有者が農民の土地を取り上げるという歴史の繰り返しの現れです(列王記上21章)。他の預言者も、このような状況に触れています。イザヤがその1人です(ミカ2・2)。エリヤはイゼベルの死を神の罰として指摘しています。イゼベルの預言者たちが良いことを預言していたにもかかわらず、アハブはアラムの王の軍と戦って死にました。息子であるオコシアスは親と同じ理想を持ち、短期間は王として君臨しましたが、子孫を残さず若い時に死にました。
列王記下2・1-13によると、オコシアスの死後(紀元前852年)、神はエリシャを預言者とし、火の馬に曳かれている車によって2人を分け、エリヤは旋風によって天に上りました(列王記下2・11)。

エリヤの人格
 エリヤは私たちと同じように、人間的な情熱に左右されています。勝利を得た後、イゼベルの仕返しを恐れて砂漠に逃げ、死を望みました。しかし、神の天使が彼に飲み物や食べ物を与えたため、再び元気を取り戻し、ホレブ山に行き、そこで洞穴に隠れました。
 うつ状態の中、預言者エリヤは神の摂理に対する大きな熱意を示します。嵐、地震、そして火の後に静かなそよ風となって神は現れ、エリヤを支えました。そして、神はエリヤに新しい使命を与え、最後にエリシャを後継者として示しました(列王記上19、ホレブ山にいるエリヤ)。

非暴力のメッセージ
 あの時代は大きな混乱があり、神に対する忠実とその掟は守られていませんでした。それは、王が他の国の神々に対する信仰を取り入れていたからです(列王記上16・31-32)。それらの新しい神々は、権威を保証するための手段として暴力、不寛容、そして土地を取り上げることを正当化していました。エリヤはそのような横暴、押し付け、搾取に対して声をあげ、国を襲った干ばつは神からの罰として捉えました。結果として、エリヤは、このような迫害や殺戮の中、濁って乱れているイスラエルの宗教を清め、純粋なものにしていく活動を始めました。しかし、彼のイニシアチブは反対の結果を生じさせ、圧迫、暴力と迫害が更に深刻になってしまったのです。疲れ果て、気を落としたエリヤはホレブ山に行き、そこで「神は脅かすようなものを伴って現れることはない」ことを見出します。強風や、物を焼き尽くす火ではなく、涼しくて静かな風、顔を撫でるそよ風のようにして神は現れることを知りました。そして、主の望みを実現するために他の道を歩むように招かれるのです。
 エリヤは、カルメル山の虐殺の後(列王記上18・20-40)、逸脱(列王記下1・1-18)、不正に対する訴えを諦めず(列王記上21・1-29)、自分の使命の後継者のグループを育てることを選びました(列王記下2・1-12)。エリヤは、たとえそれが正しいことに関してでも、暴力では何も得られないということを理解しました。劔の力で、イデオロギーを押し付けることはできるけれど、尊敬は得られず、平和や正義を実現することはできません。

新型コロナウイルスのパンデミックの只中にあって
「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない(マタイ14・27)」
 福音書は、イエスの弟子たちのもう1つの誘惑について指摘しています。自分の信仰の土台がしっかりしていない時に、誘惑に負けることについて。嵐が静められた場面で表現されている暗い夜、嵐の海に入っていく船は、キリストを信じる共同体の姿を表しています。船は沈む危険に曝されてはいません。しかし、乗組員はパニックに陥っています。この心理状態は、嵐の中で近づいてくるイエス様を見て、幽霊だと勘違いさせます。迷いが大きいので、その姿を見たとき、エルサレムへの道に導いてくれた師を見分けることができなかったのです。イエスの声は彼らを安心させます。しかし、海に飛び込んだペトロが不安を覚えた途端、沈み始めました。それはイエスが逆風を静めることができると信じられなくなったから。共同体の使命に反対する力に対して、イエスが打ち勝つことへの信頼を失ったからでした。

 今日、私たちの共同体は、常に逆の風に晒され、破壊されそうな不安に襲われています。危険は外ではなくて共同体の中にあるのではないでしょうか。反対の働きに対する恐れやパニックからの決断は、脅かす幽霊を見るようにさせます。復活されたイエスの勝利を見分けるはずなのに、幽霊を見るのです。復活された主に全面的に委ね、落ち着いた信仰のみが、荒れた海に裸足で立っていられるということ。今日の福音は船を脅かす全ての現実に対して、しっかりと信仰で向き合うように招いています。しっかりした信仰と、求め続ける厳しい信仰が、向こう岸にある神の国へ向かって吹いて行くそよ風のようなのです。

結びの祈り
 新型コロナウイルスによって生じたパンデミックの中で、私たちが希望を持って生きる力を見出し、共にいる主の言葉に支えられますように。
 この世がもっと人間的であり、兄弟のようである為に働いている人々、特に医師、看護師、医療の奉仕者が、様々な困難の中で気を落とすことがありませんように。そして、コロナウイルスをコントロールできるワクチンが、医学の力によって早く見つかりますように。
生きた力、創造される力である神よ、私たちを引き寄せ、あなたの現存で私たちを満たしてください。 あなたの現存を全ての被造物の中に感じさせてください。自然の中に、そして歴史の中に、過去においても未来においても、また私たちの宗教においても、全ての国々の中にも、あなたの現存が感じられますように。特に、私たちはナザレのイエスが現した霊を通して、あなたを近くに感じることができますように。
アーメン。