カトリックさいたま教区/CATHOLIC SAITAMA DIOCESE

司教メッセージMESSAGES

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年間第23主日 マタイ18・15-20

2020.12.6 (日)
あなたは見張り、聞きなさい(エゼキエル33・7−9)
今日、神の声を聞くなら、神に心を閉ざしてはならない(詩編95)

いつものように、まず、第一朗読についてコメントし、預言者エゼキエルの人生と使命について説明します。エゼキエルの歴史的背景は、時も、場所も、現代の私たちとは遠く離れています。しかし、エゼキエルを見ていくと、私たちの時代の預言者を発見するためのキーワードがあることに気付きます。現代の預言者として、オスカル・ロメロ、ペドロ・カサルダリガ、教皇フランシスコ・・・。


預言者エゼキエル:イスラエルの歴史の中での彼の働き(エゼキエル33・7−9)
 エゼキエルは預言者エレミヤと同じ時期の人です。バビロンの追放の最中に預言者になりました。彼は結婚していました(エゼキエル24・18)。ブジの息子で、祭司の家系に生まれました。ユダの王ヨヤキンと、1万人の人々と一緒にバビロンに捕虜として連れて行かれ、畑で働かされました(紀元前587年)。カルデアのニップル近郊、ケバル川の沿岸、テル・アビブと呼ばれるメソポタミアの街に留まりました。5年後、彼が30歳になった時(エゼキエル1・1)、預言者として神に呼ばれ、22年に亘って、追放された人々の間で預言職を果たしました(紀元前570年)。

ユダヤ教とキリスト教の伝統によるエゼキエルの役割:見張り
 エゼキエルは追放の時の預言者、民の見張りとして現れています。他の預言者たちもこの使命を自分のものとしています。見張りの姿勢は、預言者たちのひとつの特徴です。
 これより先に起きることに注意し、民に「気をつけなさい」とアラートを発する。そして神の言葉を聞くために、身構えています。歴史の出来事を読む。そして神の言葉の光に照らされて解釈します。民の危険に対しての見張りになる。ですから、預言者は、この先、民に起きることに対して、責任を負う者です。預言者は民の眼を開くミッションを持っています。民はその預言的な解釈を受け入れることも拒否することもできるのです。
 最後に、エゼキエルはユダヤ教の父とも言われています。司祭職的なビジョンによって、彼が、イスラエルの追放後の復活と、ユダヤ民族としての、その後の存続についてのインスピレーションの元であるからです。
 彼の言葉にはシンボルと勇気がいっぱいありました。時には受け入れ難い、硬い言葉がありました。しかし、それは喚起の力を持ち、効果的でした。ラテン教会は、早くから彼を聖人として尊重していたのです。

バビロンへの追放の意味(紀元前586〜537)
 バビロンへの追放と捕囚の時代は、ヘブライ民族にとって全面的な囚われの時と考えられがちですが、この追放が及んだのはヘブライ人の上流階級だけでした。イスラエルを占領した征服者たちの狙いは、そこに強い政治的権力が立ち上がらないようにすることでした。そのために、反乱をリードする可能性のある階級の人たちを強制的に連れ去りました。下層階級にとっては、この強制的な移動の影響はほとんど無かったのです。国としての自由を失ったことは、ヘブライ人にとって大きなトラウマでした。彼らは心の拠りどころとして、ナショナリズム的な宗教から、モダンなユダヤ教へ向かって一歩進みました。同時に、メシアに対する最初の希望を抱き始めました。神が試練を与え、その状況に奇跡的変化を起こして、最後にユダヤの自由を取り戻すという救いの希望が芽生えたのです。

パウロの手紙と今日の福音のコメント
 今日の典礼は、共同体においての共同責任について考えるように招いています。信仰、広い意味では、私たちの霊的生活は、個人的なことであり、その責任を譲れません。しかし、人間として、私たちは共同体の中で生きています。ですからある意味では、私たち全員がそれぞれ、兄弟の人生の責任者でもあるわけです。

第二朗読:回心(メタノイア)(ローマ13・8—10)
 パウロは、自分の人生を愛の基礎の上に築くようにと、信仰者を招いています。各々がキリスト者として、各共同体として、歴史の中での挑戦に応えられるように、向き合って行かなければいけないと。愛は、重要な統合であり、命の源であり、全ての宗教的レベルの掟の纏めでもある。このようにパウロの勧めは福音的な勧めと完全に一致します。
 本当に愛する人には、誰にも決して害を与えたくない。逆に、人が人として、そして信仰者として成長できるように、いつも助ける方法を探します。回心とは、ギリシャ語でメタノイアと言います。回心は理性と心の変化です。本当に回心する人は、愛を生きることを唯一の規範とします。愛は具体的な姿勢と行動になります:奉仕、尊敬、許し、和解、忍耐、理解、平和、正義、そして兄弟としての連帯です。

福音:互いの忠告(マタイ18・15−20)
 マタイ福音書は、兄弟としての忠告を示しています。この箇所を通して、マタイの共同体の中での争いを感じることができます。要理的な教えに直面しています。共同体の中での問題に、どのように直面し、解決しようとするか。それはカテケーシスのようなものです。罪は、個人だけではなく、共同体にとっても重要なものであるのです。
 イエスの教えに従って、難しい人間関係の問題を解決しようとしています。他の人がどのように行動するか。裁判官になるのではなく、決まりを破った人を救うことが、まず、目的です。最初から罪に定めて排除するのではなく、様々な手段を講じて、人を救う、教育的プロセスを実践します。しかし、もしその人が抵抗し、招きを受け入れず、悔い改めない場合、共同体は、その人を共同体から追い出すしかありません。与えられる赦しを受け入れることができないなら、その人自身が交わりの輪から外へ出て行くことになります。
 私たち信仰者としての任務、それは真理のために闘うこと。私たちの家庭が、まず和解と真理の場にならなければならない。イエスは、自分の間違いを修正しようとする人を尊重するように求めています。怠惰な態度で、免責をよしとすることでもない、支持することでもない。預言的姿勢とは、何よりもまず、正義、真理、和解に対する責任なのです。

祈り
 ・私たちのキリスト教的共同体が、人との間の和解のために力強く働き、受け入れ、互いの赦し合いを実践することができますように。祈りましょう。

 ・家族のため。親子の間での理解を促し、調和と和解の気持ちを支えられますように。

 ・最後に、「主の祈り」を唱えながら終わりましょう。私たちの過ちを認め、お互いに赦し合えますように。
天におられる私たちの父よ・・・