カトリックさいたま教区/CATHOLIC SAITAMA DIOCESE

司教メッセージMESSAGES

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年間第26主日 マタイ21・28-32

2020.12.27 (日)
世界難民移住移動者の日のテーマ:「イエス・キリストのように、逃げざるをえない」
 
国内避難民を受け入れ、守り、促し、彼らと共生する 
 昨年2019年の初めに教皇フランシスコは、9月の最後の日曜日を教会として「世界難民移住移動者の日」と定められました。

 教皇様はこの行事を通して、世界中で困難な立場に置かれている移民移住者を取り上げ、人類全体に対して呼びかけられています。それは恐れの感情や、間違った認識で、移民を疎外の対象にしてはいないか、ということです。昨年(2019年9月29日)のテーマは「移住者だけのことではないのです」でした。そして、今年のテーマは「キリストのように、逃げざるをえない」。このメッセージの中で、キリスト者の姿勢を強調する4つの動詞が指摘されています。「受け入れ、守り、促し、彼らと共生する」。このことについては、バチカンニュースでニュースとメッセージを読むことができます。
https://www.vaticannews.va/es.html
 教皇様と一致して、特別に世界の移民と難民のために祈りましょう。特に、新型コロナウイルスの影響で苦しんでいる人たちのために。

福音書から、人々の生活を読む
今日の説教では、マタイ福音書の、2人の息子のたとえ話に焦点を合わせましょう。まず、イエスが人々に言われたことについて、初代のキリスト者がそれをどのように理解したかについて考えましょう。そして、最後に、現在、世界で3,000万人が新型コロナウイルスに感染し、100万人が亡くなっている、日本での患者は8万人を超え、死者は1,500人以上に上るという状況の中で、このたとえ話が、今、私たちに何を問いかけているのかを考えましょう。

 恐らく皆さんも、わたくしもそうですが、このイエスのいくつかのたとえ話を聞いた時に、中身を簡単には理解できないでしょう。神の国を説明するためのイエスのたとえ話は、時に私たちを困惑させます。神の国は私たちの間にありながら、まだ完成していない。間違いなくイエスの考え方と表現は独創的でした。同じ文化、同じ宗教を持っていたあの時代のユダヤ人にとっても。

 ですから、気を落とさないでください。弟子たちや、あの当時の人々にとっても、理解するのは難しいのです。イエスご自身に特別に説明を願うことがありました。解りやすい例は、種まきのたとえ話。このたとえ話には2つの部分があります。初めの部分にはマタイの物語(13・1-9)。その後に、弟子たちに対するイエスの説明(マタイ13・18−23)。ここにはマタイのいたずらのようなものがあります。弟子たちがイエスに、たとえ話の意味を説明してくださいと言う時、実は、この弟子たちは、私たちを含めて、それぞれの時代のキリスト者のことなのです。すなわち、どの世代も弟子たちのように、イエスにたとえ話の説明を、それぞれが生きている歴史的な時に合わせて願わなければなりません。
 
他のたとえ話に関して、イエスからの特別な説明はないと思います。従って、各世代が、弟子たちのようにイエスのたとえ話を聞いた時、種まきの話のように意味を理解するためのキーワードを探さなければなりません。わたくしにとって、他のたとえ話は、今日の話も含めて、種まきの話より理解することが難しいと感じています。ですから、み言葉をよく聞く人として、カール・ラーナー神父が言っているように、私たちはたとえ話に込められたメッセージを探さなければならない。それは聖書の注釈に助けられて、歴史的、社会的背景の中で理解するため。そして、カトリック教会の伝統が、それをどのように解釈したのか理解するためです。

二人の兄弟の例え話:全てのユダヤ人に対してではなく、その指導者に対して
 イエスがエルサレムに入城され、神殿から商売人を激しく追い出した話(マタイ21・1−27)の後には、3つのたとえ話が続きます。それは、イスラエルの民全体ではなく、宗教的指導者に向けて書かれています。
 *「二人の息子」のたとえ話(マタイ21・28−32)
 *「ぶどう園と人殺しの農夫」(マタイ21・33−46)
 *「婚宴のたとえ」(マタイ22・1−14)
 イエスは、対立する宗教の責任者と自由に議論します。イエスが彼らに言います。
1つ目、神が望まないことをする人に関して
2つ目、権力を握って、邪魔するものを殺害する人に関して
3つ目、神の国の婚宴に入らない人たちに関して
 ユダヤ人の指導者たちは、イエスが強く自分達に向けて言っていること、しかし巧妙な形で言ったことを理解します。ですから、その場でイエスを排除しようとしました。イエスが自分たち指導者のことを語っていること、それを民衆に気づかせないように。そして自分たちの行動を民衆が非難しないように。指導者たちは、口では神の掟を守るように要求するけれど、自分たちはそれを実行しないのです(マタイ21・46)。しかし、彼らはイエスを殺さなかった。それは民衆がイエスの側についているからです。指導者たちは民衆を恐れていました。彼らは宗教的ではあったのです。しかし、裏切り者というだけではなく、臆病者だったのです。

 イエスのたとえ話で理解しなければならないことは、何を言うかより、その実行が大切だということです。特に、言うことに行いが伴っていない時のことです。それがあの兄弟の間で起きたことです。
 ユダヤ教のエリートたちは、金銭に対しての執着について話していましたが、彼らは貧しくはなく、裕福に生きていました。彼らは、傲慢や誇りを、悪いことと見なしていました。しかし彼ら自身が地位や名誉を気にしていたのです。自分たちを社会的に最も良い人として自慢していました。彼らは性に対して厳しく、否定的でした。しかし、彼らは、それに反する人たち、つまり性犯罪者を隠したり、匿ったりしていました。

イエスとイエスのメッセージ(福音)はつまずきの元になる:
 ユダヤ教の指導者たちに対してのイエスの訴えは、ますます強くなる。それは、指導者たちが最も軽蔑していた、徴税人や娼婦たちが、神の国において、彼らより先にいるというイエスの考えは、世間で後にされている人が、神への道では先頭にいて、人々の一番前にいると思っている人たちが、後ろにいるということでしたから。

マタイの呼びかけ:奉仕の精神を新たにする
 しかし、マタイがこの言葉を書いたのは、ユダヤ教のリーダーたちのためだけではなく、自分の共同体のキリスト者に注意を呼び掛けるためであったと私たちは知っています。特に指導者たち、司祭や信徒に向けてということ。この視点から見ると、マタイ共同体の指導者たちは、良い羊飼いであるイエスが、弟子たちに願ったこと、すなわち、「真の奉仕者である指導者」ではなかったということです。

 教皇フランシスコは教皇職につかれた初めから、組織、Curia romana(ローマ教皇庁)の改革に取り組んできています。本当に教会に奉仕するように。それを改革しなければいけない、と。教会全体の奉仕者であって、世界の助けになるように。このCuria romanaが管理者などではなく、もっと悪く言えば、経済的でモラル的な汚職の場であると。パンデミックの数ヶ月間、このCuria romanaの改革の基本線を実現させるために、教皇様は一生懸命働いていました。

 加えて、10月4日、聖フランシスコの祝いの日、アッシジで3つ目の回勅にサインをされます。
“Fratelli Tutti”、とは「みんな兄弟」という意味で、これはアッシジのフランシスコが使っていた表現です。この手紙(回勅)は公のメッセージであって、カトリック教会だけではなく、全ての人類に向けられています。すべての国の政府と市民に。人間の総合的発展を目標にした、新しい社会を築くため。これを実現するためには、繋がりのある動きを強化する必要があります。特に、貧しい人、弱い人、社会から疎外されている人たちと連携していくことが大切です。
 次回の説教からは、教皇様の新しい回勅に触れていきます。今から“Fratelli Tutti”という、イタリア語のオリジナルのタイトルを覚えるようにしましょう。

祈り
 神よ、あなたは、私たちには言葉と行いの一致が必要であることを示してくださっています。私たちの心を清めるため、意志を強めるために必要な勇気を与えてください。それによって、私たちの生活が、イエス様の生き方と全面的に一致しますように。いつも私たちと共にいてくださる主イエスよ。アーメン。