カトリックさいたま教区/CATHOLIC SAITAMA DIOCESE

司教メッセージMESSAGES

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2011年新年の司教メッセージ

2010.12.20 (日)
"主があなたを見守り、あなた方の魂を見守ってくださるように。"(詩篇121:7)

さいたま教区の兄弟姉妹の皆様へ

クリスマスおめでとうございます。そして、新年おめでとうございます。

 まだまだ、厳しい経済状況が尾を引いています。日本をとりまく国内外での不安定な状況も続いています。それらはわたしたちの生活にも影を落とし、精神的にも重くのしかかっています。しかし、こういう時こそ、わたしたちは神に希望をおき、主が見守ってくださっていることを確信し、平和への道を歩んでいける一年であるように祈りたいと思います。
 さて、わたしは年の始まりにあたって、二つのことを皆さんと分かち合いたいと思います。ひとつは子どもたちのこと、もう一つはわたしたちの生活のことです。

子どもたちを守るために
 昨年、10月に、わたしたちの身近なところで、小学生が学校でのいじめのなかで自死(自殺)するという事件が起こりました。わたしたちは亡くなったお子さん、そして家族のためにこころから祈りたいと思います。
 この事件によって、各地で学校ではいじめの問題への取り組みが進み始めました。いじめがあってはならないと訴えることも大切ですが、わたくしはいじめがあるという現実から出発して、子どもたちをどうやって救い守るのか、いじめをどのように少なくしていくのかを考えることが重要だと考えています。また、教会の中にもいじめがあるということも認めていかなければならないでしょう。
 小教区に来ている子どもたちがいじめにあっていることをよく耳にします。実際に、多くの子どもたち、特にダブルの子どもたちがいじめにあっているのです。子どもたちは自分が受けているいじめを家族に打ち明けることすら勇気のいることです。家族にとって、特に海外からの移住者の家族にとって、それを学校や教育委員会に相談することには不安や困難がともなうでしょう。
 わたしたちに出来ることは、子どもや家族が相談できる環境を小教区(ブロック)にも作ることです。その環境はいま、わたしたちの教会にできつつあるとわたしは思っています。皆さんの中でも相談にのり、子どもや家族に寄り添ってくださっている人も多いと思います。個人的な相談のレベルから少し輪を広げて話し合い、チームとしていじめにあっている子どもや家族を支え合うことができれば、そして、教会の仲間が兄弟姉妹として学校、教育関係者、地域社会に対しても相談や話し合いを進めていくことができるようになればと願っています。
 この二年間、派遣切りなどで雇用不安が広まったなかで、教会共同体の皆さんが、一緒になって職を失った人や生活に苦しんでいる人のために支援、援助をしてきました。それと同じように、いじめの問題についても、それぞれの出来ることを持ち寄って、共に歩んでいければと思います。

わたしたちの生活の見直し
 さて、皆さんにお聞きしたいと思います。普段の生活のなかで、道端に咲く小さな花の美しさに気付いたり、自然の風景を見て感動したりすることはありますか?子どもが帰ってきたときに、子どもの話に耳を傾ける余裕がありますか? もし、それがなければ、危険信号です。
 わたしたちは経済、効率優先の社会のなかで生きていくことを余儀なくされています。なかには、社会の歯車から外れることにおびえを感じている人もいるでしょう。お金を稼ぐために日本に来たのだからといって、走り続けている人もいるでしょう。そのことがわたしたちに大きな重荷になっていないでしょうか? そのなかで、わたしたちは神の被造物の素晴らしさを見失ってはいないでしょうか?
 そうかといって、仕事や社会的な責任をすべてかなぐり捨てては生活していくことはできません。でも、少し、わたしたちの生活に余裕を持たせることはできるはずです。そこで、私自身にたいする提案でもありますが、皆さんにも提案してみたいと思います。生活の中で5%削減して、5%余裕を作りだすことです。それはそんなに難しいことではありません。たとえば、家事の時間を5%減らして、こどもの話を聞く。家事の時間を仮に8時間とすれば、24分間です。残業を減らして5%の時間を作りだす。週に2時間ほどの時間を作りだすことです。その時間を自分や家族のために使うことができます。5%、食事を質素にすることも、家庭の電気、水道、車のガソリンなどを減らすこともできます。できる範囲で、それぞれのアイデアで5%を目標に時間、お金、物などを削減するのです。この5%がわたしたちの重荷を少し軽くし、より豊かな心を持つことにつながるのではないでしょうか。
 言い方を変えれば、いままでの生活から5%、清貧に生きることです。その5%は神の似姿である人間の本来の姿に戻ることを可能にします。神と共に生きる喜びにつながるはずです。それが、孤独のうちに生活している人や、いじめによって孤立している子どもを兄弟姉妹として迎えることにつながれば、どんなに素晴らしいことでしょう。
 
 詩篇121は汗をかきながらエルサレムの都に登っていく巡礼者の歌です。「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ」という一節から始まります。山を登る途上、ひと息つき、山々を見上げ、神への信頼を確認し、力強く登り続ける希望を持つ姿が表現されています。わたしたちの生活を山登りにたとえるなら、山々を仰ぐ時間が5%の余裕にあたるのでしょう。

主が見守ってくださっていることに信頼して、新しい年を踏み出すことができますように。
†全能の神、父と子と聖霊の祝福が皆さんの上にありますように。

2011年1月1日
さいたま教区司教

マルセリーノ谷 大二