カトリックさいたま教区/CATHOLIC SAITAMA DIOCESE

司教メッセージMESSAGES

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聖家族 ルカ 2・22-40

2020.12.27 (金)

今日は、主の御降誕の次の日曜日として、喜びのうちにナザレの聖家族をお祝いしています。朗読されたルカ福音書の箇所では、イエスの少年期の最後の出来事が描かれています。その後は主の公生活まで福音書では何も記されていません。恐らくナザレのイエスは、受肉の神秘により、真の人間となられ、人々と同じ生活を過ごされたからではないかと思います。
 
両親はイエスを捜し、見つける(ルカ2・22−52)
 ルカ福音書が今日語っているのは、清めの期間が過ぎたとき、イエスの両親が主の律法に従ってイエスを献げるために神殿に詣でたときの出来事、ナザレに戻ってたくましく育ったこと。そして、イエスが12歳となって両親とともにエルサレムに上ったときの出来事です。この箇所はとても大事な言葉で締めくくられています。それは、イエスの成長の宣言、知恵に満ち、神の恵みに包まれるようになったとの宣言です。「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。」(ルカ2・52)    

 ルカは、イエスの家族が宗教的義務を果たしていることを記しています(41―42節)。両親は、イエスがエルサレムの町に黙って残ったことに戸惑いました。3日の後、すなわち、この数字にはシンボル的な時の意味が含まれていますが、子どもを見つける。難しい対話が続きます。ズレがあるように聞こえるかもしれません。最初は叱っているように、「なぜこんなことをしてくれたのです。」(48節)それは苦しみの気持ちから生じた質問です。返事は、驚かせます。「どうしてわたしを捜したのですか。」(49節)その理由は当然です。親が捜すことは当然です。しかし、2つ目の問いかけは、もっと遠くを示しています。「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」と(49節)。「しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。」(50節)。私たちと同じように。

黙想
信仰、信頼にはいつも一つの歩みが伴っています。信仰者として、マリアとヨセフは戸惑い、苦しみ、そして喜びの中で信仰に成熟していきます。徐々に、物事が明らかになっていきます。ルカは、「母(マリア)はこれらのことを心に納めていた。」(51節)と記しています。マリアの黙想は、イエスのミッションの意味を深めさせてくれます。イエスに特別近いことを理由に、マリアにはこのプロセスが除外されるという訳ではありません。困難な時から逃れられる訳でもありません。神の計画を理解するようにマリアも導かれるのです。マリアは最初の弟子のようであり、イエスから、最初に福音化された人ではないでしょうか。神の計画を理解するのは簡単ではなく、マリアですらすぐには理解できない。神との一致、交わりに入るためには3つの要求があります。まず、捜すこと。マリアとヨセフは捜しに出かけました。次に、信じること。マリアは信じた方です。そして、3つ目には、神の言葉を黙想すること。マリアは、これらのことを心に納めていた、とあります。

祈り
すべてのキリスト者のため:キリスト者が一つの人間家族として、この世界を平和と愛に満ちたものにすることができますように。祈りましょう。
壊れた家族、両親の離婚によって苦しんでいる子どもたち、家族から離れている人たち、共に過ごしたくとも過ごせない人たちを、主よ、助けてください。祈りましょう。
・(他の意向を加えましょう)

終わりに
すべての人間と同じように、家族の中で、人生を始めることを望まれた主イエスよ、温かさ、家庭、そして、身近な人を支えながら歩むこと、他の人へと心の窓が開かれるようになるための努力、特に、私たちの心の扉が、助けを求めて叩きに来る人にいつでも開かれていますように。それらの大きく広い家庭的な交わりを探し求めてやまない心と、それをこよなく大切だと思う心をお与えください。
私たちの主、イエス・キリストによって。アーメン。