カトリックさいたま教区/CATHOLIC SAITAMA DIOCESE

司教メッセージMESSAGES

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年間第28主日 マルコ 10・17-30

2021.12.10 (日)
兄弟姉妹のみなさん、
 今日の福音では、ある人がイエスの元へ走り寄った時の出来事が朗読されました。私たちもイエスに出会うよう、招かれています。この人の名前が記されていないということは、それが私たち一人一人を表しているのではないでしょうか。

福音書(マルコ10:17−30):永遠の命をどのように受け継ぐか
 今日の福音の主要なテーマは、「富」についてです。イエスは、金持ちが神の国に入ることの難しさ。不可能ではないけれど、とても難しいと教えられています。たくさんの財産を持っている人に、持っているものを分かち合うように、貧しい人や困っている人のために財産を使うように勧めています。

 福音書にはしばしば描かれていることですが、すべては出会いから始まります。イエスと出会ったこの人は若い頃から神の掟を忠実に守って生きてきた人でしたが、本当の幸せを見つけてはいませんでした。そこで、イエスに「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」と尋ねたのでした(17節)

 他の人たちと同じように、全面的に生かされた命に魅了され、またもう一方では、人生を富で数えることに慣れていました。永遠の命も、そのように買うことで手に入れられる、特別な掟を守ることによって叶えられると思っていました。恐らく、この金持ちはある意味、永遠の命は金では手に入らないと分かっていたのかもしれません。しかしいくつかの霊的な条件を守れば入れると思っていたのです。

 イエスは、この人の中に深い望みがあることが分かっていました。そして福音史家は、イエスがその人に愛に満ちた眼差しを向けられたと強調しています。それは神の眼差しです。しかし同時に、イエスはこの人のどこに弱さがあるかを知っています。それはたくさんの富に執着していること。ですからイエスは彼に、貧しい人に全てを与えるように勧めました。それによって、彼の宝、彼の心が、この地上にあるのではなく、天上にあるということをお示しになりました。そして付け加えました。「行きなさい・・・わたしに従いなさい」(21節)と。いろいろなものを困っている人に分かち合うことによって、イエスのプロジェクトに協力することができ、求めている永遠の命を得ることができるからです。

 この人は、それは無理だと感じました。財産は必要である、自分の財産なしで生きる力はない、金はすべてのものの上にあると考えました。そしてイエスに従うことを諦めます。彼はイエスのところへ走って来ましたが、今は悲しみながら去っていきます。イエスに協力する喜びを体験することができなかったのです。

この物語が最初のキリスト者に与えたインパクト
 富を捨てることなしにイエスに従おうとしたこの金持ちの物語は、初代の教会共同体の人たちに影響を与えたのではないでしょうか。その証拠として、共観福音史家たち三人すべてが、この出来事を細かく記録しています(マルコ10:17−30、マタイ19:16−30、ルカ18:18−30)。

 イエスが弟子たちに、また私たちにも言われていること、それは財産を持っている人が神の国に入いることは難しい(23節)ということです。特にイエスが「金持ちが天の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」と言われたとき、弟子たちは戸惑いました。それを見て、イエスは言いました「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」(24−27節)と。

 しかし、金持ちにとって、また様々な物質的なものを持っている私たちは、このような考えを死ぬまで持ち続けるのではないでしょうか。イエスがこの金持ちに呼びかけたことを具体化するために、アレクサンドリアの聖クレメンス(150〜215年)の説教が、私たちにとっても光になるかもしれません。「この例え話が教えているのは、金持ちが救われていないかのように、救いを無駄にしないように。富を海に投げ捨てること、命の敵として悪いものとするではなく、どのようにそれを使って命を得られるかということです。」(説教27:「どのような金持ちが救われるのだろうか」)

 このように教会の歴史では、自分の財産を福音的に使って聖人になった人たちが何人もいます。アッシジの聖フランシスコ(1226年死去)、ハンガリーの聖イザベル(1231年死去)、聖カルロス・ボロメオ(1584死去)、他にもそのような人たちがいます。

第1朗読(知恵7:7−11):生きることを学ぶ:生きるために知恵を願う
 経済危機があり、特に新型コロナウイルスからのパンデミックがこれを更に深刻にしています。そのような状況下、イエスに従っている人たちにとって、もっと質素な生き方をすることが求められます。今日の第一朗読が呼びかけているように、世界は回心する必要があります。もっと質素で連帯ある生き方。キリスト者として、イエスに従っている者として、具体的な問いかけをしなければなりません。

 始めに、金で得ているものと私たちとの関係です。どのようにお金を使っていますか。私たちの消費に関して詳しく調べなければなりません。もっと責任を持って、強迫的で、表面的にならないように。深く考えないで買っていませんか。何を買っていますか。何のために買っていますか。私たちは誰かを助ける、或いは困っている人が何かを手に入れるために助けることができていますか。このような質問を、私たちの良心をもって、思慮深くしなければなりません。私たちの家族で、キリスト教共同体、あるいは修道会など、宗教の様々な機関で。

 英雄的なことをしなくても、その方向に向けての小さな一歩を踏み出せば、イエスに従う喜びを体験することができます。それによって困難な状況にある人たちが、もう少し人間的に支えられるのです。そうでなければ、私たちは宗教的な決まりを守ることによって良いキリスト者と感じることはできても、イエスに従う喜びに満たされることはありません。

 今日の答唱詩篇90:14は「朝ごとにあなたのいつくしみを注ぎ、日々わたしたちに、喜びの歌をうたわせてください。」と唱っています。このロザリオの月、私たちがキリスト者として、イエスに招かれている使命を、喜びをもって全面的に生きることができますように、聖母の助けを願いましょう。