カトリックさいたま教区/CATHOLIC SAITAMA DIOCESE

司教メッセージMESSAGES

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年間第30主日 マルコ10・46-52 世界宣教の日

2021.12.24 (日)
「見て聞いたものを語りなさい」

兄弟姉妹のみなさん、
 今日、カトリック教会では世界宣教の日をお祝いしています。10月は宣教の月であることを思い出しましょう。”.毎年、世界に派遣されている宣教師たちは、福音の宣教として様々な活動を、皆さんの寄付・援助によって、現地の人々の発展のために行い続けています。
 この日は1926年ピオ9世の主導のもとに始まり、教皇様方は教会に福音宣教の熱意が広がるように、毎年新しいテーマを選び、呼びかけのメッセージを送って下さっています。今年のテーマは「わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」で、神の愛の力によって私たちが体験したことや生活の証しを述べ伝え、分かち合うよう招いています。特に、何よりも今、パンデミックの下では、不平等、不正、痛みと貧しさがさらに助長されています。ですから、この世がもっと連帯性をもち、人間的になるよう、教会の福音宣教を支援する必要性があります。

神の民として、2023年のシノドスの準備に参加する
 先週の日曜日、全世界のカトリック教会の交わりの中、それぞれの教区で、2023年にローマで行われるシノドスの準備期間が始まりました。先週の日曜日の説教でも申しましたように、教皇様がシノドスに対して願われているのは、神の民全体がこの準備に参加することです。もう一度繰り返しますが、これが次のシノドスの最も新しい特色です。教皇フランシスコが望んでいることは、教皇と司教たちだけでなく、司祭、助祭はもちろん、奉献生活者も信徒も参加することです。私たちの共同体の生活についても、体験と考察を分かち合うことによって参加することです。

 このシノダリティの道の歩みを励ますために、教皇から任命された委員会が立ち上げられました。共同体での作業が進められやすいように、10個のテーマが設けられ、テーマごとに質問が準備されました。すべての共同体での歩みが主からの恵みに満たされて進められるよう願って、毎日曜日のミサで「シノドスの祈り」を祈ってください。それに加えて共同祈願でも、シノドスの祈願を祈ってください。

マルコ福音書(10:46−52): バルティマイは盲目から脱しイエスに従う
 今日朗読された神の言葉について、いくつかの黙想を分かち合います。エリコでの、イエス様と目が見えないバルティマイとの出会いについて語られています。マルコ福音史家に従って、バルティマイがどのように視力を取り戻し、そして、イエスに従う共同体のメンバーになったかを思いを馳せましょう。マルコ福音史家によって描かれた、目が見えないバルティマイの癒しは、共同体が盲目と凡庸から出るよう招く目的があったのかもしれませんが、それは今の私たちにも向けられているメッセージです。

 バルティマイは道端に座っている一人の物乞いです。彼の人生はいつも夜です。イエスの話を聞いていますが、その顔を知らない。従うことができない。イエスが進んでいる道のそばにいますが、その外側です。ところが、目が見えないにもかかわらずバルティマイは、イエスが自分の近くを通っていることに気付きます。何も疑わず、救いはイエスにあると自分の中でする声が聞こえます。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」。信仰に基づいて繰り返すこの叫びが、癒しにつながっていきます。目が見えなく、人は見えないけれど、イエスの声を聞くことは出来たのです。人々は彼を黙らせようとしましたが、彼は叫び続けたため、ついにイエスに届き、イエスは人々を遣わして、彼をお呼びになります。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」彼も素早く反応しました。立ち上がるために妨げになっている上着を手放し、自分の闇の中、飛び上がり、イエスに近づきます。心からの、一つの願いが出ます「先生、目が見えるようになりたいのです。」なぜなら、彼は目が開けばすべてが変わると知っていますから。物語の最後は盲人が視力を取り戻し、「なお道を進まれるイエスに従った」と結ばれています。

歴史的、地理的背景についてのいくつかのコメント
 マルコは このエピソードがどこで起きたかを記しています。エリコの出口です。ユダの砂漠にあるシュロの街です。約束の地の入り口です(申命記32:49、34:1参照)。ヨルダン沿いの道を通過します。ガリラヤからエルサレムに旅する巡礼者にとっては、その道しかありませんでした。エルサレムまでは30キロの距離がありました。イエスの時代のエリコは、旧約時代のエリコの南西にあります。この街はヘロデが建設したもので、裕福で豪華な住居が多くありました。

 そして更に、バルティマイの名前についての具体的な指摘があります。ティマイの子(マタイとルカはこのことを指摘していません)。ヤイロとバルティマイの名前だけが、マルコ福音書の受難の場面の前に現れています。多分、この人がパレスチナ共同体のメンバーであったからかもしれません。

第一朗読(エレミア 31:7−9)との間で;
 主人公は盲人です。盲人と言えば、あの時代では目が見えないだけでなくて、宗教的に罪びとだとして批判されていましたA。このことについてそれは旧約聖書の三つの箇所で見ることができます(レビ記19:14、申命記27:18、イザヤ59:9)。これらの箇所はイスラエルの盲人たちの状況を知る助けになります。そして今日の典礼は、福音とエレミヤの第一朗読を繋げています。それは両方とも、盲人たちにとって喜ばしい出来事についての話ですから。

 私たちが盲目か、あるいは足が不自由な状態で人生を生きているか、とかには関係なく、神は私たちを愛していると、エレミヤは言っています。なんとか歩けるだけ、あるいは向かっている方向がわずかしか見えず、自分がどこにいるのかわからなくても、少ししか見えない、小さな予感であっても、傷つきやすい状態、あるいは全面的な弱さにあっても、身ごもっている女性、あるいは最初の子を産んだ母親のように弱い状態であっても、それらに関係なく神は私たちを愛してくださっているのです。私たちが神から逃げていても、地の果てに隠れていても、神は私たちを愛してくださる。その理由は、私たちが神の子であることを実感するため。私たちは神のみ国の一員になるために、愛によって宿されたのです。

 イエスは旧約の時代から、貧しい人や苦しんでいる人に近づくことによって、その時代の宗教的リーダーから忘れられていた、愛と慈しみにみちた神の姿を取り戻します。世界宣教の日に当たって今日、もう一度、最も必要としている兄弟姉妹のために、私たちが神の愛の具体的な印になることができるよう願いましょう。