司教メッセージMESSAGES
年間第31主日 マルコ 12・28-34
2021.12.31 (日)
兄弟姉妹のみなさん、10月も最後の日になりました。そして、典礼ではB年の年間第31主日です。典礼暦の1年の輪は、11月21日「王であるキリスト」のお祝いで終わります。
気候変動の影響、夏の暑さを乗り越え、稲の収穫も終わり、美味しい果物の季節になりました。そして、長い冬の間も私たちの花壇を美しく彩る花たちの準備が始まっています。
日本は確かに花の国です。住んだ経験がなければ、こんなに種類豊かな花が日本にあると想像することは難しいのではないでしょうか。今、秋になり、山や森、公園や街の道端にすばらしい紅葉を見ることができます。一年を通して神の素晴らしい創造を、喜びのうちに見ることができます。ですから、このパンデミックが終わった時には、もう一度外国から多くの人が観光に訪れることを願っています。私たちが神が創られた自然や生き物を見て、賛美と感謝の祈りを献げることができますように。
今日は申命記についての短いコメントで始めたいと思います。それは、私たちが歴史の中で神の現存を発見するための助けになるからです。まず、全てのユダヤ人がこの掟を毎日唱えなければならないことを理解する努力をしましょう。また同時に、この伝統が神の民と呼ばれたユダヤ民族の歴史の中で、どのように伝わったかを見ましょう。
今日の福音朗読で、日毎の糧を得るための私たちの日常の戦いにおいて、神様がどの位置にいるか、私たちの計画の中に神がどのようにいるかを考察します。従って、コインの両面の顔としての神と、隣人に対する愛の掟については、また別の機会に話すことにします。
第一朗読(申命記6:2−6):神なしでは民は方向性を失う
まず申命記の歴史的背景を見ましょう。モアブの草原で、モーセはカナンの地に入ろうとしている民に、その準備として最後の指示を与えます。エジプトと砂漠はもう過去になり、その約束の地で、民として生きるために役に立つものを多く学んだのでしょう。エジプトは二度と戻るところではない。しかし砂漠は、民が地平線を忘れたり、見失った時に戻らなければならない場所である。なぜなら、その場所は、再び神に征服されるために、神との出会いの理想の場所だからです。
ここで、別れの時、モーセは約束の地に入ることができません。民に将来があるように、最も重要なことを強調しています。それは主が与えられた教えと掟を守ることです。
今日、申命記で読まれたテキストは、イスラエルにとって魂であり、案内、ロードマップです。ですから、イスラエルは、これをおろそかにしたり、他のものに替えることはできません。そうすれば国として迷子になり、滅びるリスクを負うからです。日本語で「聞け」と訳されているヘブライ語「シェマー」(shemá)には「従う」「実践」という意味が含まれています。イスラエルの民が、歴史の中でしなければならなかったことです。しかし残念ながら、多くの場合は忘れてしまい、悪い指導者によって苦しみ、エルサレムの街とその神殿さえ破壊されたこともあります。その結果、大勢の人々がバビロンに追放されました(最初の追放は紀元前597年)。
歴史から学んだ経験によって、イスラエルは神に耳を傾けます。その言葉、教えを実践することの意味を学ばなければなりません。イスラエルに起きたさまざまな事、主の掟が求めているのは、イスラエルを縛ることではなく、その視野を閉ざすためでもないのです。民全体を気まぐれな神の下に置くことでもないのでした。イスラエルを解放する神は、民が自発的に選んだありふれた神でもない、神が、イスラエルを選んだのです。「どの神でもいい」という神ではなく、「命の神」が自由に選んだのです。イスラエルの民を命に導くことを望んでいる神。しかしイスラエルは、いつも、神が何を求めているかを理解できず、他の神々に従いました。そして、他の神々の企ての中に入ってしまった時、迷子になり、混乱し、唯一の真の神を知らない他の民よりもっと悪い状況に陥ったのです。このように、最も厳しい時を乗り越えた後で、最初からの神の提案は何であったかを思い起こしました。神を愛すること、ただ神のみを探し求めること、もっとひどい失敗に陥らないために、一見魅力的な他の提案を信用しないことを。
福音(マルコ12:28b-34):イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である
多くの人は軽く、表面的な信仰から、軽薄で無責任な無神論へと移ります。ある人たちは、自分の生活から全ての宗教的な実践を無くし、信仰共同体と関係を断ち切ってしまいました。カトリックだけではなく、他のキリスト教と他の宗教からも。しかし、このような姿勢で、人生の最後に体験する神秘、すなわち、病気や死後についての問題を解決できるのでしょうか。
神を信じる、と言いながら、教会や司祭たちの教えを信じない人がいます。このような生き方を選んだ人たちがカトリック教会の中にもいますし、他のキリスト教や宗教のなかにもいます。それを「信じる」と言えるでしょうか。いくら個人的に信じても、共同体から離れて自分なりの信仰を持つのを本当の信者、キリスト者と言えるのでしょうか。神を思い出さない、話さない、聞かない、喜んで待つこともないのに、どのようにして神を信じるのでしょうか。
また、他の人たちは「神なしで生きる時ですよ」と宣言しました。もっと自分に責任を持って人生に向き合う生き方、間違った時、物事が思ったようにならない時、神のせいにしない生き方を目指すと言います。しかし、彼らの生活を身近に見ると、神を捨てた彼らの人生が、尊厳と責任あるものになったようには見えません。
多くの人たちは、自分の宗教を作り、自分に合うモラルを作り、楽に生きることしか求めていない、人生の深い問いかけをすることを避け、難民や移動者、世界から排除された人々をどのように助けることができるかも考えていないように見えます。
ある人たちには、神は信じられるのか、信じられないのかも分からない。何の役に立つのかも分からない。彼らは働いて楽しむことでいっぱいで、日常の様々な問題で気が散っていたり、テレビのプログラムや雑誌で週末がいっぱいなので、彼らの生活には神の居場所がないのです。
しかし、この軽薄な無神論は、「神を信じない」と声をあげている人たちだけにあるとは言えない、信仰を持っていると言っている人の心の中にもあるかもしれません。 自分が信じている神が、実は人生の唯一の神ではない、あるいは一番大事なものでもない、ということです。
ですから、自分に問いかけながら終わりましょう。
「聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」(マルコ12:29−30)とのイエスの言葉を聞く時に、私たちの心の深いところで何を感じるのでしょうか。
私の心、私の精神で、私の日常生活、そして、私の計画の中で、神はどのような位置を占めているのでしょうか。