カトリックさいたま教区/CATHOLIC SAITAMA DIOCESE

司教メッセージMESSAGES

←前の年 2021年  次の年→ 

年間第6主日 マルコ 1・40-45

2021.12.14 (日)
 この日曜日をもって典礼の「年間」が中断され,17日の灰の水曜日で四旬節が始まります。パンデミックが続く中、公開ミサはまだ行われませんので、特に教皇様が司式されるバチカンの典礼儀式を通して、教会とともに歩んで下されば幸いです。ご自分の言語のプログラムを自由に選ばれます。私たちの教区では、緊急事態宣言(3月7日まで)が早く解かれるように感染拡大が落ち着き、公開ミサが再開されますように祈りましょう。

 今日のマルコ福音書で語られているのは、重い皮膚病を患っている人の癒しの物語です。社会から疎外されている人に対するこの癒しを通して、イエスの優先度が表されています。イエスは人が住んでいない地域を通っています。そこに突然、重い皮膚病を患っている人が近づいてきます。誰も彼と一緒にいません。当時、重い皮膚病を患っている人は孤立して生活していたことを私たちも知っています。なぜなら、その病人たちは人から離れて生活するよう、法律で定められていました。それは感染する病気であり、重い皮膚病の人は汚れていると思われていたからです。
このような考え方は医学的、宗教的な視点から、レビ記に描かれています。そこでは「その人は独りで宿営の外に住まねばならない。」(レビ記13・45−46)と強調されています。

重い皮膚病とそれを患っている人、虐げられている人の生活(レビ記13・1−2、44−46)
 ユダヤの伝統では、特に、この病気は神からの呪いとして扱われ、本人か家族の誰かの重い罪の結果としての罰と考えられていました。あの時代の医学では感染症とされていたので、この病気を患っている人を厳しい決まりで取り締まり、社会から除外していたのです。この間違った考えは、つい最近まで長い世紀にわたって続いていました。

 レビ記は、旧約聖書の華夏では、創世記、出エジプト記に続く3番目の書物ですが、その全体は退屈に思われるかもしれません。しかし、そこに纏められている様々な決まりを通して、ユダヤの伝統による生活がどのようなものであったかを理解することができます。人の行動について詳細に、例えば、どのようにトイレを造り、どのようにそれを使わなければいけないか、などが書かれている本です。そこに生まれる思いは、とても人間的なものでした。
 重い皮膚病の人については、生きているにもかかわらず死人のように扱われていたと書かれています。重い皮膚病は治らない病気とされていたからです。祭司たちには病人を診る役割があり、病気の症状が確認されたら、その人を汚れた人として宣言します。宣言されると、その人は集落から出て行かなければなりませんでした。そして孤独で尊厳のない生活を始めるのです。汚れた者として、道で健康な人に出会った時は、その人に感染しないように避けなければなりません。実は、ユダヤ教の法的システムは、性、健康、社会地位、年齢、宗教と国籍を理由に、常に人を阻害していました。

福音書:重い皮膚病は去り、その人は清くなった(マルコ1・40−45)
 この男は自分の状態について疲れを憶えていたのではないでしょうか。治る可能性はないとわかって、イエスを見て、跪き、イエスに全てを托して、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願ったのでした。
イエスは、病気が理由で捨てられて、人間らしい姿を失っている人が、自分の足下にいるのをご覧になり、心を動かされました。イエスは深く憐れんで彼に触れます。それによって、習慣を破るだけでなく、とても硬い宗教的な決まりをも破りました。イエスは手を伸ばして、彼に触れ、「よろしい。清くなれ」とおっしゃったのでした。イエスは、人を軽蔑して阻害する法律、すなわち、政治的法律や宗教的法律の上に人を置きます。
旅している道で出会った人、特に苦しんでいる人に、社会から阻害され、宗教者から忘れられ、そして、倫理的、あるいは宗教的に優れている身分の人たちから排斥されていた人たちに対してイエスはとても敏感でした。それはイエスの内面から出るものです。なぜなら、神は差別しないことを知っているからです。ですから、イエスは、どんな人も拒否せず、阻害しないで、受け入れて祝福するのでした。良い人だけにするのではありません。イエスは朝方に起きて祈る習慣を持っていました。ある夜明けを見ながら言いました。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、・・・」(マタイ5・45)

重い皮膚病を患っている人が普通の生活に戻るための手順
 イエスは黙っているように願います(メシアニズムの秘密のテーマとして知られ、今日に至っても神秘に包まれている)。そして祭司のところへ行くように言います。それが証となり、社会生活復帰のための印となります。神は、命と子ども、息子と娘である尊厳を取り戻そうと望まれ、決まりを超えて行動されます。

 しかしこの男はその秘密を守れませんでした。舞い上がって、沈黙を破り、解放された経験を言いふらしました。祭司や神殿の組織の仲介を重視しないように見えます。その代わりに、自分勝手な判断で、良い知らせを言い広めました。そのために、イエスは公に姿を現すことができず、街外れに行きました。なぜなら、阻害されている人を受け入れると、イエスが阻害された人になってしまうからです。しかし、阻害された所で新しい命が芽生えているのです。それを発見した人たちは、そこへイエスを探しに行きます。

 皮膚病を患っている人に対するイエスの最後の行動についての黙想
イエスの行動で最も驚かされるのは、イエスの独創的で挑発的な姿です。罪人、娼婦、あるいは望まれない人々と共に食事をするといった行動です。これはとても珍しいことでした。神の人の名声を持っているような人が、罪人と同じ席で飲食することなど、当時のイスラエルでは見られなかった姿です。尊敬さるべき宗教家たちは、それが我慢なりませんでした。反応は攻撃的でした。「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」(マタイ11・19)。イエスはこれに対して自分を守ろうとはしませんでした。イエスは社会や宗教から拒絶されている人たちに対して、尊敬し、尊重し、心を動かす友情を持っていたのでした。

今日の福音書に基づいての祈り(ご自由に)
+ 私たちの社会から阻害されている全ての人々が、日々の生活の中で、神の息子、娘である尊厳を守ることができますように。祈りましょう。

+ このパンデミックの時、キリスト教教会がイエスに忠実であることによって、外国籍、あるいは、特別の病気を持っているという理由で、人を阻害し、悪用しようと築く、すべての壁を壊すことができますように。祈りましょう。

+ 私たちを愛し、呼びかけてくださる創造主である父よ、私たちに力と勇気をください。私たちの日々の生活の中で、あなたの子イエスにあやかり、そのプロジェクトである、正義と平等に満ちた社会を築くための力をください。私たちがそれぞれに置かれている場所で、自分の居場所と意義を見出し、法律が特権ある人たちの利益のためのみに利用されることなく、様々な形で表現されるすべての命、特に危険な状態に置かれている命を守るために用いられるようになりますよう努める勇気をください。

私たちの主、イエス・キリストによって。アーメン。