カトリックさいたま教区/CATHOLIC SAITAMA DIOCESE

司教メッセージMESSAGES

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四旬節第2主日 マルコ 9・2-10

2021.12.28 (日)
足利の山々の火事
 この1週間、足利市の山火事のニュースを観続けています。21日の日曜日の昼ごろ、ほんの小さな火から始まったものが、大きな山火事になってしまいました。消防士たちがヘリコプターで一生懸命に、水をかけています。しかし強い風によって、火災はどんどん広がり、コントロールすることができていません。早くこの山火事がおさまるように祈りましょう。避難された方々が地域の支援を受けられますように。そして、一生懸命奉仕している消防士たちの健康を願いましょう。足利の主任司祭トマゼリ・ペドロ神父は、教会や小教区の家族は大丈夫です、と話しています。皆さんの中に足利に親戚をお持ちの方々は彼らと連絡をとり、それぞれの必要に応じて、霊的、物質的支援をしてください。そして、足利市の山に囲まれたところに私たちの福祉事業、「イースターヴィレジの子どもたち」の事業所があります。この子たちは早く火が消えるように祈っています。この時期、日本で最も乾燥した時期、私たちは火に注意しなければなりません。台所以外のところで火を使うときには特にそうです。なぜなら、小さな風でも火の粉は舞い上がって火事の元になりますから。同時に、小さな火も、必ず消すこと。例えばミサで使われる祭壇のロウソク、あるいは、香の炭も消すようにしましょう。

これから、四旬節B年、第2主日の典礼に示されている、神の言葉について考えましょう。

変容の物語:3人の弟子の前で、高い山で主は変容された(マルコ9・2−10)
 四旬節第2の日曜日の福音の中心は、イエスの変容です。典礼は、砂漠へ行き、誘惑に直面して、それに打ち勝ったイエスに従うように招いています。そしてイエスと共に祈りの山に登るよう提案しています。それはイエスの人間的な顔に、神の栄光の光を見るためです。マタイ、マルコとルカは、イエスの変容について共通に語っています。

 根本的な要素は二つです。一つ目は、イエスは弟子たち、ぺトロ、ヤコブ、ヨハネと高い山に登り、「イエスの姿が彼らの目の前で変わり」(マルコ9・2)、「服は真っ白に輝き、」、「エリヤがモーセと共に現れて」;そして二つ目は「雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。『これは私の愛する子。これに聞け。』」(マルコ9・7)

ベネディクト16世教皇の黙想
 イエスの変容は、根本的には祈りの体験です。すなわち、祈りが頂点に達し、内的光の泉になる。人間の精神が神と一致し、そして、神の意思と人間の意思が一つになる。イエスが山に登られた時、ご自分を人類の救いのためにこの世に派遣された、御父の愛の計画に、瞑想をもって深く入られました。イエスと共にエリヤとモーセが現われた、それは、聖書がイエスの過越の神秘を告げるためである、すなわち、キリストが苦しみ、そして栄光に入るために、という意味です。

 その時イエスは、ご自分の前に迫っている十字架をご覧になっています。それが、罪と死の支配から解放するために必要な、最高の生贄であるということを。ご自分の心の中で、再び「アーメン」と繰り返しました。そして、「はい」、「ここにいます」、「父よ、あなたの愛のみこころが行われますように。」そしてヨルダン川での洗礼の後に起きたように、天からの印が届けられました。それは光の父である神からの肯定を表す印、イエスを変容され、そして「これはわたしの愛する子。これに聞け。」(マルコ9・7)と宣言する声でした。

 断食といつくしみの業と祈りは、私たちの霊的生活の基本的な仕組みです。
 兄弟姉妹の皆さん、この四旬節の期間、長く続く沈黙の中で、天の父から注がれる愛の光で照らしながら、私たちの生活を振り返りましょう。真剣に耳を傾ける時、祈りの教師であり、モデルである聖母マリアに導かれますように。マリアは、イエスの受難の暗闇の時でさえも、聖なるご自分の息子の光を失わず、魂を守りました。ですから、信頼と希望の母として、マリアを呼び求めましょう。

第一朗読:アブラハムの信仰の試練(創世記22・1−18)
 第一朗読には、神がアブラハムを試すエピソードが書かれています。アブラハムは年老いて、唯一の息子であるイサクをもうけました。約束の息子でした。国々に救いをもたらす息子でした。しかしある日、アブラハムはその息子を生贄として献げるようにと神から命令されます。生贄の視点から見れば、年老いた長老には、想像以上のものです。しかし、アブラハムは疑わず、必要な物を準備して、息子イサクとともに指定された場所に向かいます。

 山の頂上に向かっての歩みの中で、アブラハムと息子イサクの心の中で起きたことを私たちは想像することができます。祭壇を築き、そこに薪を置き、少年を縛り、献げるために包丁を手にする。アブラハムは自分の息子を生贄にするほど神を信頼しています。自分の息子、将来。その息子がいなくては、約束の地は何の意味も無くなる。すべては無で終わる。自分の息子を犠牲にするということは、自分自身を犠牲にすることです。将来のすべて、約束のすべてを犠牲にすることです。

 とても、極端な信仰の行為です。その時、神はそれを止めるように天から命令します。神は死を望まず、生を望んでいます。真の犠牲は、死ではなく命を与えるのです。アブラハムの従順は、今日に至るまで、大きな祝福の泉になりました。

第二朗読:神の愛の力に信頼する(ローマ8・31b−34)
 第二朗読では、神自身が犠牲を行われたとパウロは主張しています。罪と死に打ち勝つために、神は御自分の息子を十字架におつけになりました。このように、神の働きによって、悪に打ち勝ち、この世にあるすべての悪を乗り越えられるようになりました。この特別な神のいつくしみは、パウロに驚きを与えるとともに、私たちに対する神の愛の力に深く信頼するように私たちを導いたのです。

 「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」(ローマ8・32)とパウロは主張します。神が子によってご自分を与えてくださるのであれば、私たちにすべてを与えてくださることになります。

 パウロは私たちの人生を脅かす他の力に抵抗して、キリストの贖いの力を強調しています。パウロは自分に問いかけ、「誰が神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。誰がわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」(33−34節)と主張します。

 私たちは神の心の中にいます。これが私たちの大きな信頼です。これが愛を生じさせ、愛によって神に向かうことができます。もし、神がご自分の子を私たちに与えてくださったのなら、その大きな愛から誰が遠ざかることができましょうか。十字架上の最高の愛の生贄が、私たちの救いの泉になったのです。

祈り
 教会のため。世界の闇と苦悩、特に、1年以上に亘るパンデミックの中で、教会が苦しんでいる人たちの奉仕者であり、いつくしみの福音を宣言する預言者でありますよう祈りましょう。
・すべての民のため。様々な文化と宗教的な信仰の違いを超えて、もっと人間的な世界となりますように。特に私たちの共通の家である地球と自然を守るために、力を合わせることができますように。
・あなたの愛する子イエス・キリストに聞くよう、招いてくださる私たちの父よ、あなたの言葉を信頼をもって実践できるよう、私たちの心を開いてください。普遍的な兄弟愛に基づく社会を築くことができますように。
私たちの兄弟姉妹とともに、あなたの愛する子であるイエス・キリストによってお願いします。アーメン。