司教メッセージMESSAGES
加藤智神父叙階式の説教(2011年2月11日)
2011.12.15 (火)
司教 谷 大二
今日、皆さんは歴史的瞬間に立ち会っています。英国国教会の司祭がこのアジアで叙階されるのは、おそらくこれが最初で最後になるでしょう。
2006年に加藤師に出されたベネディクト16世教皇の特別許可によって、英国カトリック教会の司祭としての道が開かれました。加藤師が英国から日本に移籍するにあたってはローマの教理省の認可が必要でした。バチカン大使、アルベルト・ボッターリ大司教様、英国司教協議会副会長のピーター・スミス大司教様、日本司教協議会会長の池長潤大司教様のご尽力によって、この2月に教理省の認可がおりました。それによって今日叙階式ができることになりました。この場をかりてこころからお礼申し上げます。
教皇様の特別許可には妻帯司祭の場合の条件がついています。今日、加藤さんの奥さんもお嬢様も参列されています。一つは、たとえ、奥様がなくなられても、再婚できないという条件です。さいたま教区には妻帯している終身助祭が5名おりますが、これは妻帯している終身助祭の場合も同じです。もう一つは、直接小教区を司牧する主任司祭にはなれないという条件です。しかし、協力司祭として司牧にあたっていただくことは可能です。一つ、間違えていけないのは、今回の叙階によって、妻帯司祭への道が開かれるということでは決してありませんので、誤解なさらないようにお願いいたします。
今回は条件付きの叙階式となります。加藤師はすでに英国聖公会の司教によって、叙階されていました。その英国国教会の司教様に司教としての継承権があれば、彼はすでに叙階された司祭となり、今回の叙階式をする必要がありませんでした。しかし、もし、その司教様に正当な継承権がないとすれば、ローマカトリック教会としての叙階が必要となります。いま、私どもにはその司教様に継承権があるかどうか判断できる材料がありませんので、もし、継承権がなければ、という条件のもとでこの叙階式を行うことにいたしました。いずれにせよ、この叙階式によって、かれは正式にローマ教皇のもとに戻った司祭となります。
さて、加藤智さん、あなたはこの叙階式の聖書の朗読個所をご自分で選んで下さいました。今日の朗読個所は聖木曜日、すなわち、「主の晩餐の夕べのミサ」からとられています。福音には「最後の晩餐」の場面が描かれています。あなたがこの個所を選ばれた理由は私にはよく分かります。秘跡、特に聖体の秘跡を大切にし、それを中心にした司祭生活をこころから望んでおられるからでしょう。聖体は司祭としてのアイデンティティの源泉でもあります。
聖体は実にキリストそのものです。パウロはフィリピの信徒の手紙の中で次のようにキリストにおける出来事、生涯を美しく、端的に述べています。「キリストは神の身分でありながら、神と等しいものであることを固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分となり、人間と同じものになられました。キリストはへりくだって、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順でした。」
このキリストの歩んだ姿、愛の行為、愛の出来事がご聖体のうちに実現しています。ご聖体をいただく私たちは、「へりくだって、しかも十字架の死に至るまで従順であった」キリストと一致することによって、自分自身が解放され、救いへの道を歩むことができます。また、「僕の身分となり人間と同じものになられ」て、抑圧された人々、小さくされた人々のところに進んで近寄っていかれたイエス姿に、わたしたちは近づき、一致することができるのです。そこにわたしたち、自分自身の解放の道があります。その解放なしには私たちは司祭として生きていくことができません。
聖体、つまり一つのパン、一つのからだにつながり、結ばれることによって、わたしたちはすべての人と交わりを深めることができます。キリストにならって、へりくだり、人々への愛を実現していくことは、司祭として奉仕することです。それは、見えるものと見えないものの創造主である神のみ業に参与することにつながります。
司祭としての奉仕の生活、そして人々のつながり、それは共に解放の道を歩んで行くことであり、神の創造のみ業に共に参与することです。その中心には、いつも神の愛の実現であるご聖体が中心にあります。
さいたま教区の司祭団はあなたを喜んで迎えます。私たちはその準備も行ってきました。さいたま教区すべての兄弟姉妹とともに、キリストの歩んだ道を、共に歩んでいただきたいと思います。
兄弟姉妹のみなさん、今日、教皇のもとに司祭としてもどられた加藤智師と共に喜びを分かち合い、共に祈っていただきたいと思います。
神に感謝