カトリックさいたま教区/CATHOLIC SAITAMA DIOCESE

司教メッセージMESSAGES

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四旬節第5主日 ヨハネ 12・20-33

2021.12.21 (日)
 聖週間に近づいています。四旬節第5主日を迎え、来週の日曜日、受難(枝)の主日から、典礼暦年の中の最も重要な一週間が始まります。幸いなことに、私たちの教区でも公開ミサが今日から再開されて聖なる1週間を迎えます。
しかし、感染の拡大は今も続いていますので、注意しましょう。今は変異ウイルスのことも、特に医療に携わっていらっしゃる方々にとって心配です。しかし、長かった緊急事態宣言のために、人々の中に疲れが出てきているように思います。そして、今、春の訪れを感じ、花や緑に誘われます。

 今は、社会的な危機の時です。しかし、私たちは感染の危険のことを忘れたい気持ちがあるかもしれません。桜の花の下、グループで花見をする人たちが出てくるかもしれません。しかし、皆さん、教会で集まる時には三密を避けることを続けましょう。油断しないように。 それぞれの小教区で決められたミサ参加のきまりを尊重しましょう。教会に集う兄弟姉妹の中には、特に外国籍の方々の中には、新型コロナウイルスによって家族を失っている人たちがいます。ミサの中で、その方々の永遠のやすらぎを祈りましょう。

気候の変動とアメリカでの幾千の人の移動
 昨年はパンデミックの他にも、2つの強いハリケーンが中南米を襲い、家が破壊され、多くの命が奪われました。この災害によって、絶望した中南米の多くの人たちがグアテマラやベリーズを通過して300キロを移動し、メキシコに入りました。
乳飲児や幼い子どもを抱いた母親が川を渡り、アメリカに入る様子を毎日のようにYouTubeのニュースで観ることができます。国境警備隊のゴムボートに助けられている人たちもいます。バイデン大統領によって、全てのラテンアメリカ人が受け入れられると宣言されたものの、一週間に何千人もの人々を受け入れるのは簡単ではありません。彼らに泊まるところ、食べ物、医療などを提供することが必要です。特にこのパンデミックの中、アメリカは感染者と亡くなる人が特に多かった国です。この状況を目にしていると、まるでずっと四旬節にいるように感じさせます。長い間、荒れ野を旅しているようにも感じてしまいます。しかし、メキシコの人々が、寛い心で、移動者たちに一時的な宿泊の場所を提供しているのは素晴らしいことです。
アメリカ合衆国には多くのラテンアメリカ人が住んでいて、親せきや友達が来るのを待っています。彼らにとって、特に子どもたちにとって、もっと良い将来があると信じて、アメリカに移住すると言われます。合衆国国勢調査局によりますと、約6,000万人のヒスパニックの人たちが現在アメリカで暮らしていて、この10年のうちに、ヒスパニック人口は25.3%増加し、国全体の18%になります。
それにつけても、世界の全ての人に、住まいと働く場所を探す権利があることを、どこの国でも、そのような人たちを受け入れる姿勢を持たなければならないことを私たちは忘れてはなりません。
人類が家族として生きている、この歴史的背景を前にして、今日の御言葉を通して神は何を伝えようとしているのでしょうか。今日はミサの中で四旬節第5のB年を聞きました。

第一朗読:エレミア31・31−34:神の民になる
 エルサレムの町が破壊され、心配なのは、ユダヤ人たちが分裂していることでした。その中で預言者エレミアの声が赦しと希望の歌として聞こえます。聖書の専門家たちは、これらの章を慰めの本と呼んでいます。神はご自分の民と新たに始めたい。そのために新しい契約を結ぶことを提案します。それによって神と民の間に新しい関係が生まれるのです。
どのような契約か。それは板に書かれているものではなく、人間の心の中に刻まれている。法そのものではなくて、精神が神に近づかせることを、神が明らかに指摘しています。心の中に神を持っていれば、法は人間化する。絶対的なものではなくなり、それに従うようになる。律法主義的ではなく、真ことに人間は神の民の一員となります。もう1つの神からの贈り物は、神を無償で知ることです。入学金や月謝を払わなくて良いのです。大人か未成年の区別なく、この民族かあの民族かではなく、差別されることなく、誰も恐れることなく、それぞれの民の歴史の中に啓示されるのです。

第二朗読:ヘブライ5・7−9:祈りは、委ねられた使命を受け入れるように、私たちを強めてくれる
 ヘブライ人の手紙は、御父のみ胸を果たすための、イエスの姿勢を指摘しています。この箇所はオリーブ山での場面を思い起こさせます。イエスは、もし出来ることならば、この死から解放してはいただけないかと、御父に祈っています。この祈りの結果として、使命を果たすためにイエスは力付けられます。使命の実現を免除される御父ではありません。キリスト者はここで学ぶことがあります。私たちは、多くの場合、祈りや願いにより、「神のみ胸の通りにならないようにと懇願している」のではないでしょうか。
このテキストは、イエスが苦しみを持って受け入れることを、御父の計画に従順である証拠として示しています。イエスの祈りと苦しみは、全ての人類と連帯している、具体的な印です。イエスが御父のみ旨と完全に一つになっていることは、イエスが私たちにとっての神の現存であることをあきらかにしています。そして、世界の全ての人々に救いの道を開き、その手本になっているのです。

福音朗読:ヨハネ12・20−33:イエスを知る望み、弟子になる望み
 ヨハネ福音書では、ユダヤ人たちがユダヤ教から回心している様子が見られます。過越のお祝いのためにエルサレムに来た人々。キャラバンの中にギリシャ人が現れています。彼らはフィリポに願い、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。質問は、「どこにいるか」ではなく、したがって、誰でも正しい情報を提供することができたはずです。しかし、この願いには、弟子たちの仲介を望んでいることが表わされています。それによって、イエスを個人的に知ることになります。弟子たちは師の身近にいる存在として、仲介者、証し人、イエスに出会いたい人たちの道の友として認められています。イエスを探しているのがギリシャ人であることが、福音書の普遍的なシンボルとなっているのかもしれません。異邦人がイエスを探している、それは言葉と印の時が終わりなっていることを告知しています。最も大きな印の時、受難と十字架の死が近づいていることを告知しているのです。

 イエスは受難を予告する:死ぬ一粒の麦の話
イエスは短いたとえ話を語ります。死んでいく麦の粒だけが、多くの実を結ぶという、この短いたとえ話は、福音書全体の最も重要な教えを表しています。イエスのメッセージの頂点である、与えつくす愛、自分自身さえ与える愛、自分自身を失い、ご自分が死ぬことによって私たちに命を与えるというメッセージです。人間の特徴は愛すること。自分自身ではなく、他の人々に自分の命を与える、自分自身を差し出し、他の人々を中心に置いて愛することです。
 「一粒の麦」のたとえ話は、人類の成熟度の高い状態を表しています。それは愛の頂点の表れとも考えられます。イエスがくださった新しい掟、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネ15・12−13)の素晴らしいたとえ話です。イエスのくださったこの新しい掟の中に福音のメッセージの全てが含まれています。実は、他の宗教も、愛、連帯、自分中心から出ていくことこそ宗教の根本であることを発見しています。イエスが告げられた福音こそ、人類が探し求めているものの「最高の表現」です。イエスのペルソナこそ、神の最も優れた現存です。
もし私たちが種であれば、何に死ななければならないでしょうか。

祈りましょう:
・ 教会のために。具体的な行動を通して、社会の最も弱い人と阻害されている人に、連帯と親近感を持って希望と神の愛を届けることができますように。主に祈りましょう。(他の意向を加えることができます)
・ 正義、平和と連帯の御国がこの世に実現しますように、イエス様が弟子たちに教えた祈りを唱えましょう。天におられる私たちの父よ・・・