司教メッセージMESSAGES
聖木曜日(主の晩さん) ヨハネ 13・1-15
2021.12.1 (木)
私たちカトリック信者にとって、聖木曜日の典礼は、キリスト教暦年の頂点である聖なる三日間の始まりです。枝の主日から始まり、聖木曜日、聖金曜日を経て聖土曜日に至る1週間は、一年で最も知られている7日間であり、これを聖週間と言っています。そこで、聖なる三日間のはじめとなる今日、イエス様が亡くなって復活される直前の最後の3日間をどのように生きられたのか、皆さんが何かまた新しいことを発見していただけたらと願いながら、福音書に添いながら、聖なる3日間の最初の日、聖木曜日について少し長い黙想を試みたいと思います。
聖木曜日:ドラマチックな一日;日没から金曜日の朝方まで
まず、聖木曜日に焦点を当てます。とても劇的な一日です。その日は木曜日、その
夕方、イエスは弟子たちとの最後の晩餐を共にされました。それはイエスに最も身近で従った人たちとの別れの食卓でした。解放を願いながら、ゲツセマネで祈られる前の出来事でした。
この別れの食事の後、イエスにはいろんなことが次々に起こります。
+ 最も身近な12人の中の一人である、イスカリオテのユダに裏切られます。
十 イエスは夜、暗いところで逮捕されます。これは人を騒がせないためでした。
十 そして、その直後に尋問され、祭司長と最高評議員から死刑の宣告をうけます。
彼らはその地域においてローマ帝国の権力者なのです。そのすべてが、金曜日の
夜があける前に起きたことです。
+ ペトロにまで裏切られます。イエスを知らないと3回も証言します。
しかし話すアクセントで、イエスと同じガリラヤの人とばれてしまいます。
+ そして最後には、他のすべての弟子たちからも見捨てられるのです。
最後の晩餐について: 共観福音書とヨハネ福音書の違い
共観福音書(マルコ、マタイ、ルカ)とヨハネ福音書を注意深く読むと、色んな違いがあることに気づきます。
1)一つ目の違い:その日がユダヤ教の過越の夕食だったか、そうでなかったか、について。
共感福音書ではイエスが弟子たちと共にする夕食は、ユダヤ教の「過越の食事」となっています。しかし、ヨハネ福音書ではそうではありません。木曜日は過越の前日に当たります。過越の夕食には子羊の肉が提供されていました。すると、子羊は金曜日の午後に、すなわち、イエスが十字架で亡くなっている、その同じ時に屠られなければなりませんから、ずれが生じてしまうというわけです。
ヨハネ福音書の「過ぎ越し」には神学的な意味がある、すなわち、現在私たちがミサで唱えているように、「世の罪を取り除く神の子羊がイエスである」、その「新しい過越の子羊であるイエス」との別れの食事と考えて福音史家ヨハネが書き残したと理解すれば、それが木曜日であっても問題はありません。
2)二つ目の違い:最後の晩餐の様子についての記述
この最後の集まり、あるいは弟子たちとの別れの夕食の様子については、大きな違いがあります。例えばマルコ福音書では、わずか9節しか記述がありません(14・17−25)。しかし、ヨハネ福音書に5章わたって詳しく述べられています(13−17章)。別れのスピーチ、あるいは説教と言われているほどです。
3)三つ目の違い;最後の晩餐の中心の出来事
最後の晩餐で起きることに関しては、大きく違います。共観福音書では、イエスが話された言葉に多少表現の違いはありますが、主の夕食の中でイエスが話され、現在、キリスト教的儀式(主の晩餐。ユーカリスティア、あるいはミサ)の中で司祭によって唱えられる、「これが私の体である。これがわたしの血である」とのイエスのことばが最も中心になります。
これに対して、ヨハネはこのことについて一言も記していません。その代わりにイエスが弟子たちに行った洗足式のことが記されています。それが聖木曜日の典礼の中に取り入れられているわけです。
4)掟(おきて)の日
最後に、聖木曜日については、いくつかの庶民的な環境の中で知られている、「掟の日」のことに触れておくことは興味深いかもしれません。それは、イエスが、最後の晩餐の席上、ユダが出て行った後、イエスは弟子たちに対して、「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。」とのヨハネ13・34に基づいています。
以上のように福音書ごとの違いをいい意味で総合して味わえば、聖木曜日の典礼の理解はさらに豊かに、そして深めることができるのではないでしょうか。
最後の晩餐の準備:準備のため、密かに、二人の弟子を送られた
大切な遺言を渡すこととなる最後の晩餐はエルサレムへの入場と違って、弟子以外には誰にも知られないように、誰にも邪魔されないようになさりたかったイエスは、密かに、二人の弟子を、先にエルサレムへお送りになりました。マルコによりますと、木曜日の福音の前書きで、過越の夕食の準備がその夕方に行われることになっています(マルコ14・12−16)。
イエスは二人の弟子に、都へ行くようにと、そうすれば、水がめを持った男に出会うから、彼らに頼んで、過越の夕食をするための部屋を準備しておくようにとお命じになります。弟子たちはイエスの指示に従います。部屋を見つけ、過越の夕食を相応しく準備します。この箇所は、枝の主日の典礼の中の、イエスが町に入られた時の準備のことを思い起こさせます。注目すべきは、どちらの場合も、イエスは、二人の弟子たちを送り出すとき、何を探さなければならないか、何を言わなければならないかをしっかりと教えられたことです。
最後の晩餐の準備と並行するように、ユダがイエスを引き渡す機会を狙っていたとことが記されています(マルコ14・11)。なので、ユダヤ教の権威ある人たちに場所を知らせないように、弟子を送って、最後の晩餐のための場所を準備させたのでしょう。伝統的に大切にされていた「新しい過越」と言われる「夕食」を権力者たちに妨げられないように準備されたのでしょう。イエスは何が起きているかを知っていました。これは、必ずしも特別で超自然的な予知能力によるものと、考えなくて良いでしょう。「弦が張ってきている」ことを、イエスは解っていたのでしょう。十字架が近づいている。権力者の敵対感情に関して、認識していなかったとは思えません。逮捕され、死刑になることは避けられないと分かっていたのではないでしょうか。それは神からの特別のしるしなどなくても、ご自分の周りで起きていること、それまで見てきたこと、話していたことから、ご存知だったということです。
最後の晩餐の意味
最後の晩餐の箇所を読んでみると、弟子たちに向けて、三つの大切な掟が告げられています。それは、すなわち、教会に告げられたものです。
1)他の人の足を洗う掟
2)聖体の掟
3)互いに愛し合う掟
神学的には、聖体の掟に最大のスポットを当てられました。イエスの現存とその記念であることは、パウロ(コリント11・24)と、ルカ(ルカ22・19)が強調しています。聖体儀式を祝う共同体は、イエスの命(体と血)に一致し、そしてイエスが生きた命の現存を今に再現しているのです。
互いに愛し合う掟
あの別れの時にイエスが下さった最も重要な「新しい掟」がこの掟でした。
『あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。』(ヨハネ13・34−35)。
最終的に、イエスがご自分に従う人たちに述べ、課すのはこの掟でした。弟子たちと別れた時、弟子たちに言われたこの言葉が最後で、そして、決定的な言葉でした。
イエスはなぜ、この掟に「新しい」資格を与えたのか
イスラエルの伝統では、聖書にあるように、神に対する愛と隣人愛は切り離せません(マルコ12・28−34、マタイ22・34−40、ルカ10・25−28)。ですから、これが最も重要な掟です。
ところが、イエスは、これを元にしながら、驚くべき新しいものを導入しました。例えば、最後の審判について、神という言葉を使う代わりに、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(マタイ25・40)と話され、また、「『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。」(ヨハネ第一の手紙4・20)と話されたのでした。イエスの「新しい掟」がどれほど人々にとって「新しいいのち」を運ぶものであったか、想像できるのではないでしょうか。