カトリックさいたま教区/CATHOLIC SAITAMA DIOCESE

司教メッセージMESSAGES

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聖金曜日(主の受難) ヨハネ18・1-19・42

2021.12.2 (金)
聖金曜日の私の最初の記憶:沈黙の日
 聖金曜日の典礼に初めて参加した時のことは、実はよく覚えていません。記憶に残っているのは、9歳の時、アルゼンチン、サンフォアン県のメディア・アグアの小さくて貧しい教会での初めて聖週間のことです。不思議に思われるかもしれませんが、何年か後に、家から600キロ離れたコルドバのサレジオ小神学校に入るまで、わたくしの小教区での聖木曜日、聖金曜日については何も覚えていないのです。復活徹夜祭のことは覚えています。なぜなら、侍者をしていた時に、復活のろうそくの熱いろうが手のひらに落ちてきたからです。その夜の侍者はわたくし一人でした。
 聖金曜日に関して具体的に記憶しているのは、村や近所の人たちが言っていたことです。「今日は聖金曜日だから、夕方のサッカーはなしだよ。大きな音で音楽をかけることもできないよ。」と言われたので、「なぜですか」、と訊くと、歳とった男の人が自信に満ちた態度で、「今日は神の子イエスが十字架につけられ、私たちの救いのために命を献げた日、喪に服す日、沈黙の日だからね。」と答えてくれたのでした。
 しかし、年月は過ぎ、世俗化の波がアルゼンチンの社会にも押し寄せました。聖週間に、観光業者がアルゼンチンの村へ観光ツアーを計画し始めたのです。アルゼンチンではその1週間は休日だったからです。仕事もなく、学校も休み。このように世間の典礼意識は二の次になり、実践的な信仰生活を生きるキリスト者のみの、沈黙の聖週間になりました。

キリストの受難:世界の受難
 時が過ぎ、10年後?、もしかしたら、神学を勉強し始めた25歳のとき、人生の本当の十字架が何であるか、初めて目が開かれました。自分の問題が他の人々に比べたら小さいということに気づいたのです。自分の周りにいる人たちをはじめ、それは多くの人が家庭内暴力、家族、仕事や身体的に苦しんでいることに気づいていませんでした。私の家族は貧しかったけれど、両親は私たちの食べ物や、学校へ行くための服などに不自由させることはありませんでした。徐々にですが、イエスの十字架と、人々の痛みや苦しみが繋がるようになっていきました。
 司祭に成りたての頃、レオナルド・ボフの「キリストの受難、世界の受難」という本を読んだ後、十字架上のイエスの死の意味を、更に理解することが出来るようになりました。この本の中では、イエスはどのように宣教されたかを知ったこと、特に安息日に病人を癒したり、ユダヤ教によって、社会的罪人として決められた人たちの家に招かれて、食卓を共にしたりしたことがもとで非難され、迫害され、最終的にあの時代のユダヤ教リーダーたちから死の宣告を受けることになったことなどが詳細に書かれていて、イエスの十字架の意味、イエスの受難と世界の苦しみとを結びつけて考える大きな助けになりました。思えば、正義、平和、自由、健康、教育、そして、難民を受け入れることを国のリーダーたちに要求した結果、どれだけ多くの人々がイエスのように、死に至るまでの十字架を背負ったことでしょうか。

 1989年に封切られた「ロメロ」という映画もわたくし大きな衝撃をあたえました。ラテンアメリカで軍事政権によって起きていることを意識させてくれたからです。この映画は、1970年代、エルサルバドルの市民たちが、軍事政権によって圧力をかけられたことを訴えたオスカー・ロメロ司教が政府に雇われた傭兵に殺害された事件を取り上げたものでした。1980年3月24日の朝、エルサルバドルにある御摂理の病院のチャペルでミサを捧げていた時に起こったことです。この映画を観ることによって、悪の力がどのようにこの世を痛めつけているかを強く感じるようになりました。

 イエスの受難は、今日でも、私たちの心を燃え立たせ、神の国を告げ知らせるように強く促します。命の危険があると知りながらも。

聖金曜日:主が十字架につけられた日、旧約聖書の箇所
 イエスが十字架につけられた日は、疑いなく、典礼暦年の中での最も荘厳な日です。4人の福音史家はすべて、イエスが苦しんで十字架で亡くなった時のことを語っています。出来事の根本的なことは一致していますが、詳細に関してはそれぞれの特徴があります。一つの特徴は、旧約聖書の箇所との関連、十字架の出来事と神の言葉と関わり合っているものが多くあります。その逆もあります。今まで理解できなかった旧約の言葉が、現実化し、理解できるようになったことが述べられています。
 このような語りから、私たちは、初代教会が十字架の出来事をどのような過程を経て学んだかを知ることができます。そして、共通意識を作るために決定的であったことだったのでしょう。教会が始まった頃は、イエスが十字架上で生涯を終えるということは、不合理だったし、イエスが宣言したこと、イエスの姿はきっと疑問に思われに違いありません。それは、エマオの弟子たちの場面で明らかに見えます(ルカ24・13−35)。

十字架につけられた時:受難の物語、重要な場面と、イエスと人々の言葉
 イエスが十字架上で言われた言葉、イエスの十字架の側にいた人たちについて、いくつかのコメントをします。多分、私たちの記憶にも残っている、この場面を思い起こしながら、心の中で、これらの言葉を繰り返しながら祈りましょう。十字架にかけられたイエスの側に、母マリア、愛された弟子と、距離を置いている何人かの婦人たちと共に私たちもいるのですから。
1) 十字架上のイエスの最初の言葉:「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23・34)
2) イエスに対するあざけりの言葉:「ユダヤ人の王、万歳」(マルコ15・29)、「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。」(マタイ27・42)
3) イエスの見捨てられた叫び:「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27・46、マルコ15・34)。この叫びは、「普通の見捨てられた叫び」ではありません。イスラエルの民の親しんできた詩篇を唱えています(詩篇22)。こうして、イエスは、イスラエルだけではなく、この世の全ての人々の苦しみを自分のものにします。この苦しみは、神が隠れているからです。
4) イエスの衣服をくじ引きにする:「これは裂かないで、だれのものになるか、くじ引きで決めよう」(ヨハネ19・24)は詩篇22・19を引用しています。「それには縫い目がなく、上から下まで一枚織であった。」(ヨハネ19・23)
5) 「渇く」(ヨハネ19・28)。囚人を十字架に付ける最初の時、痛みを和らげるために行われる習慣に基づいて、イエスに飲み物をあたえようとするが、イエスはそれを拒否します。意識を持ったまま苦しみに耐えることを選びました(マルコ15・23)。
6) イエスの母、ヨハネと十字架の側にいた他の婦人たち。イエスの母:何人かの女性たちが遠いところから見ていた。その中に、マグダラのマリア、ヤコブの母マリアとヨセフ、そして、サロメがいた。彼らはイエスがガリラヤへ行った時にもてなした人たち。その他、多くの人たちがエルサレムに上った。(マルコ15・40)
イエスは母と愛する弟子を近くに見て、母に対し、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です。」と言われ、それから弟子に対し、「見なさい。あなたの母です。」と言われた。そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。(ヨハネ19・26)。
7) 死ぬ前の最後の言葉:福音史家によると、(ローマ時間の)9時、午後3時に、イエスは祈りながら亡くなります。ルカ福音書では、最後の祈りは詩篇31からとられています。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」(ルカ23・46)。ヨハネにとって最後の言葉は「成し遂げられた」(ヨハネ19・30)。共観福音書は、十字架上の死を宇宙と、典礼的出来事として書いています。太陽が暗くなる、神殿の垂れ幕が真っ二つに裂け、地面が揺れ動く。多くの死者が蘇る。そして、そこでは信仰のプロセスがとても重要です。百人隊長の信仰宣言。彼はこの死刑の責任者でありながら、イエスを神の子として認めます「本当に、この人は神の子だった」(マルコ15・39)。
8) イエスの埋葬:4人の福音史家は、最高法院の上位の人であるアリマタヤのヨセフが、イエスの遺体を渡してくれるようにピラトに願ったことを書いています。マルコ15・43、ルカ23・51、には、ヨセフは神の国を待ち望んでいた人であることを付け加えています。ヨハネは、ヨセフを密かなイエスの弟子として見ています(ヨハネ19・38)。彼はユダヤ人の有力者を恐れ、この時まで自分の身分を明かしていませんでした。ヨハネは、さらに、ニコデモのことを指摘しています(ヨハネ19・39)。ローマ人は十字架で殺された人たちの遺体を、ハゲタカやカラスが食べるに任せていました。一方ユダヤ人たちは、葬ることを心掛けていました。マルコが指摘しているのは、イエスが蘇ることに対するピラトの怖れです。百人隊長にイエスの死を確かめさせます。イエスの死が確認された後、ピラトが遺体を葬る許可を与えました。ヨセフはイエスの遺体を自分の所有している墓に納めました。そこにはまだ、誰も葬られていませんでした。(マタイ27・60、ルカ23・52、ヨハネ19・41)

 最後に、ヨハネは、ニコデモについて、「そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜたものを100リトラばかり持って来た。彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ。」(ヨハネ19・39〜)と書き残しています。100リトラという量は通常の量を遥かに超えているもので、ニコデモのイエスに寄せる想いが現れていると言えるかもしれません。
 共観福音書には、何人かの女性たちがこの埋葬を見ていると書いてあります。(マタイ27・61、マルコ15・47)。そして、ルカは、女性たちはガリラヤから一緒に歩んでいた人たちであり(ルカ23・55)、彼女たちは「家に帰って、香料と香油を準備した。」(ルカ23・56)と記しています。

 「油を塗る」ということは死を止める行為の一つ、目的は体の腐敗を止めることです。油を注げば、死者を死者として保存することはできますが、命を再び与えることはできません。週の最初の日の朝、婦人たちは死者に対するもてなしとその保存が、人間的な心配であったことに気付きます。イエスは、死んだ状態で維持されるのではなく、実際に、イエスは、新たないのちに生きています。神はイエスを最終的に腐敗と死の力から救いました。婦人たちの行動と愛によって、復活の朝が宣言されたのです。