カトリックさいたま教区/CATHOLIC SAITAMA DIOCESE

司教メッセージMESSAGES

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三位一体の主日 マタイ 28・16-20

2021.12.30 (日)
兄弟姉妹のみなさん
 聖霊降臨の次の日曜日である今日は、三位一体の祭日をお祝いしています。
 聖霊のおかげで、私たちはイエスの言葉を理解し、真理に導かれました。そして信仰者は神の内面を知り、神自身が光と愛の交わりである、という発見をすることができます。
この世では、誰も神を見ることができません。しかし、使徒ヨハネを通して神はご自身を現されたので、私たちは「神は愛」と知ることができました。(①ヨハネ4・8))神は愛であり、私たちは神が私たちを愛していることを知り、信じました。イエスと出会い、イエスと親密な関係を持つことによって、三位一体の交わりを心に受け入れ、イエスの弟子たちに対する約束の通り、「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。」(ヨハネ14・23)者となったのです。

三位一体の教えの歴史について
 今日、教会が三位一体の教えをどのように表現したかについて、歴史的プロセスを短く紹介します。
 まず私たちは、イエスはいつもユダヤ人だったということを考えなければならないのです。従って、一神教だったということ。唯一の神を信じていた、一神教の信者でした。イエスは神が三つのペルソナ、つまり神が三位という話はしていません。イエスにとって神は一つであるということです。
 このように言うのは、多くのキリスト者はそれを知らないからです。三位一体の教えがイエスの時代でなく、その後にあったということを知って、不思議に思います。最初にはっきりと形付けられた表現がされたのは、ニケア公会議(325年)においてでした。福音書も私たちが知っているような三位一体のように語ることができません。

この日曜日の福音書にあるフレーズは、後になってから書き加えられたものです。
初期の世紀に何が起きたかをもう少し理解できるように説明します。

4世紀:ギリシャ哲学の文化の影響を受けて
 三位一体の教義は4世紀に正式に決まりました。ですから、一つ大事なことは、三位一体の教義にはギリシャ哲学が大きく影響しているということです。その確かなしるしとして、次のような言葉が使われています。「位格(persona)、物質(sustancia)、本性(naturaleza)、位位結合(hipóstais)」…
 三位一体の教義は、ある意味ではあの歴史的な時に対するキリスト教、ギリシャ哲学の影響の色濃い社会の人と会話をしようとした教会の応答と言えます。当時のキリスト者はやっとカタコンベから出たばかりでした。
三位一体の教義は、宗教がどのように他の文化に入るかのモデルです。ユダヤキリスト教は、ヘレニズム哲学のカテゴリーで神について話す時、分類をしていませんでした。しかし、その教義を、新約聖書の言葉と違う表現で、新たに表すようになりました。
この応答は、よく、多文化への応答のモデルとして捉えられました。キリスト教信仰が他の文化にどのように適応していったか、「キリスト教のヘレニズム化」とも言われています。これは、大きな実りを齎しましたが、もう一方では問題も起こしました。それは神の神秘をもたらすための一つのモデルを、他の文化に押し付けるという問題です。

今日のキリスト者に対する問題と課題
 三位一体の教義を形にした後、キリスト教は様々な文化を持つ、全ての大陸に広がりました。それによって何世紀にも渡り、新たな文化にどう適応するかという問題に直面しました。特に今日、ギリシャの哲学は、歴史の本や学術書の中にしか見つけることができません。実生活では、誰も、あの哲学をもって、今の生活の問題に答えることなどありません。世界とその文化は、ギリシャ哲学によって支えることはできなくなっています。その中で教会は、それ自身とその教義を哲学で表現し続け、公的にし、変えられないものにしているのです。
 ギリシャ哲学のアリストテレスに関係している言葉についても、同じ問題が起きています。例えば「聖変化 (transubtanciación)」という言葉。ミサの中で、司祭がパンをイエスの体に変化させることを、この言葉によって表しています。
 私たち、現代のキリスト者にとっては、2千年も前のギリシャ哲学の考え方と言葉でご聖体の最も中心になる神秘を理解することはとても難しいのです。
 同じようにペルソナという概念についても、それは起きます。これもギリシャ語です。その中身には独特な文化があるので、他の言語に訳すことは不可能なものになります。疑いなく多くのキリスト者にとって、人間的な概念で神に対する考えを受け入れることはとても難しい、あるいは不可能です。
 ペルソナという言葉で神を表わそうとしても、なかなか自信は持てないかもしれません。なぜなら、神を納める器として十分な人間的な言葉はないのですから。神は言葉に閉じ込めることはできません。神は全ての人間的な言葉を超えて、神は神秘です。三位一体は神秘中の神秘であり、神学者によると、永遠の命を生きようとも、神の神秘の深さを理解できないのではないか、と言われているほどです。
 ですから、私たちはこの神秘を信仰により受け入れるしかないのです。神は、交わりの神であることを受け入れる。父、子、と聖霊。そして、神が私たちの一人一人に住まわれていると知ること。私たちが人間として、他の人や、神が創られた自然との交わりなしでは幸せにはなれない、と知ることが大切なのです。
 ホセ・アントニオ・パゴラ神父のコメントに従って、イエスが神について、誰であるか、そしてどのようにあるか、を教えたことをお話しして終わりたいと思います。そのコメントはパンデミックに襲われている人類に、生きた神の現存を体験させるのではないかと思います。

神についてのイエスの教え
 イエスは神についての論文など書いていません。ガリラヤの農民のために、神についての教義を説明している訳でもありません。イエスにとって、神は概念ではないのです。美しい論理でもありません。
 神は、ただ、人間の一番良い友なのです。研究者が福音書をつぶさに調べた結果、何の疑いもないものがあります。神について話しているイエスの言葉を聞いていた人々、そしてその名によって行動しているイエスを見た人は、神を「良い知らせ」として体験しているということです。イエスが話す神の「良い知らせ」は人々にとってとても新鮮でした。イエスが伝えて、人を巻き込んでいくあの体験が、神について聞いている人たちにとって一番のものでした。
 イエスによって、人々が最初に神について理解したのは、父である神はみんなの神であること、神殿に入って相応しいと思われる人たちだけの神ではないこと、神は一つだけの聖なる場所に縛られているものでもないし、一つの宗教にだけ帰属してもいないこと、エルサレムに巡礼する熱心な人たちの所有物でもないこと、などなどでした。イエスによると、神は良い人にも悪い人にも太陽を昇らせ、だれも疎外したり差別したりしない方でした。イエスはみんなに、神を信頼するように招きます。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。』」(ルカ11・2)
イエスと一緒にいると、神は手柄をいっぱい持って近寄る人たちだけの神ではないことを発見します。いつくしみをもって願う人の願いを聞き入れます。なぜなら、その人は罪人としての自覚があるから。イエスによると、神はいつも迷子になっている人を探しておられ、罪人の友になります。イエスは言います、「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」(ルカ19・10)「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。」(マタイ9・12)。神は知恵ある人や賢い人の神ではない。イエスは知恵ある人のうしろに隠されている者を、小さき人に与える者を好まれ、そのことを御父に感謝しています。神はすべてを知っている学者たちより、素朴な民衆と理解し合います。
イエスの生涯は、神の名によって病人の苦しみを和らげ、悪霊に取り憑かれている人を解放し、疎外されている重い皮膚病の人たちを癒やし、罪人と娼婦たちに許しをあたえるものでした。イエスご自身が神を人間の一番良い友として生きていたことが彼らを納得させたのです。この神はいつも私たちの善を求め、私たちに被害を与えるものを拒否します。イエスに従う人たちは、受肉したイエスによって啓示された神は愛であり、全ての人にとってただ、愛であることを疑うことがありません。

祈りながら終わりましょう。
栄光は父と子と聖霊に、はじめのように今もいつも、世世に。