司教メッセージMESSAGES
年間第13主日 マルコ 5・21-43
2021.12.27 (日)
「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」(マルコ5・34)兄弟姉妹のみなさん
この日曜日、マルコ福音史家は、二人の女性を癒されたイエスのエピソードを紹介しています。一人は集会所の責任者である会堂長ヤイロの娘。もう一人は出血の病を患っている名もない女性。この女性たちについてイエスが示された深いいつくしみを通して、イエスに対する私たちの信仰が強められますよう、ご一緒に祈り、願いましょう。
会堂長ヤイロの娘を癒される(マルコ5・21−24、35b-43)
ヤイロはシナゴーグから帰っています。会堂長でありながら、娘の病気を治してくれる人を見つけることができないヤイロはすがる思いで湖のほとりにおられたイエスの下へと向かいます。ここで、ヤイロの娘は彷徨える民の姿とも考えられます。ヤイロは、他の命の泉を探さなければ、娘は死んでしまうと考え、ユダヤ教の古いシステムへの絶望の中でイエスを見つけ、娘を助けてほしいと必死で助けを願ったのでした。
イエスがヤイロの切なる願いにどうお応えになったか、マルコは無駄のないことばで私たちに語ってくれています。すなわち、ヤイロがイエスに願っている最中に、娘が死んだとの知らせが会堂長の家からもたらされます。それを知って、周りの人たちは、「死んだ娘のことで、もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」と話し合っているのを見て、イエスはヤイロにただ「恐れることはない。ただ信じなさい」とことばをかけ、ペトロ他、親しい弟子だけを伴って会堂長の家に向かわれます。家に着くと、真っすぐに、娘のいるところへ向かわれ、娘の手を取って、「タリタ、クム」、すなわち、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」と言われた、すると、少女はすぐに起き上がって、歩き出した、というのです。
ですから、死のおそれに慄く人たちにとって、今日の第1朗読(知恵 1・13-15,2・23-24)の中に述べられている「知恵」の核心は、すなわち、「神が死を造られたわけではなく、・・・、生かすためにこそ神は万物をお造りになった。」との「知恵」を知れば、イエスへの信仰はさらに増すのではないでしょうか。
わたしたちの教会が「イエスの教会」であり続けたければ、私たちの教会はどんなときにも師イエスに会いに行かなければなりません。そして、教皇フランシスコがいつも言われているように、困難の中で助けを求めている人、苦しんでいる人に気づいたなら、その人たちのところに出向いていき、その人たちを受け入れることが必要ではないでしょうか。そのことの大切さを私たちに考えさえてくれるパウロのことば(コリントⅡ 8・7.9,13-15)に今日は耳を傾けました。教会が刷新するためには、出向いていく教会、出会いに開かれていること、特に、世界で苦しんでいる人のもとへと出向いていかなければなりません。そうすれば、わたしたちは必ず、そこでイエスとイエスの福音に出会い、イエスがヤイロに言われたあのことば、「恐れることはない。ただ信じなさい。」というイエスの声を聞くことができるでしょう。
長く出血を患っていた女性を癒される(マルコ5・25−35)
名もない一人の女性とイエスの出会う驚きの場面です。マルコ福音史家はキリスト教共同体に信仰のモデルとして示しています。
彼女を通して、どのようにイエスを探し、そして、出会うことができるかを学ぶことができます。イエスに接し、癒されるなら、イエスから新しい命の力をいただき、平和と健康に満ちた新しい生き方へと導かれます。
ヤイロの娘と違って、この女性は何者でもない。知られていない人です。ただ、婦人病を患っていることが分かっています。病気によって、女性として、妻として、母親として健康的な生活を送れないで長年の間苦しんでいたのです。身体的、精神的に苦しみ、医者を探しながら財産を使い果たしましたが、誰も治すことができませんでした。しかし、この女性は、この先も病人として生きることに諦めがつきませんでした。イエスの噂を耳にしたとき、この女性は何としてもイエスの癒しの力を信じ、イエスに助けてほしいと願ったに違いありません。ただ一人で、誰もにもかかわらず、彼女はイエスに近づく方法を自分なりに見つけました。イエスを取り巻くあまりにも大勢の人を見るとき、イエス自身が彼女に気づき、イエスの方から彼女に近づき、手を差し伸べてくれることなど、期待できないことでした。ですから、彼女は別の方法を自分自身で探し、イエスの衣に必死で触れたのでした。イエスへの彼女の信仰が思わずさせた行為だったのでしょう。イエスは、彼女が健康的な生活を望んでいることを瞬時に理解しました。
すべてはイエスご自身以外には気づくことなく密かに起きたことです。イエスが群衆の中で振り返られ、「私の服に触れたのはだれか」と言われたとき、自分の身に起こったことを知って恐ろしくなった彼女が震えながら進み出て、すべてをありのままイエスに話した時、彼女にかけられたイエスのことば、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」(マルコ5・34)は 何といつくしみに満ちたことばではありませんか。
この女性は、イエスの救いを探し、受け入れる、私たちの信仰のモデルです。
今、私たちはこの二つの信仰のエピソードを聞きました。弟子たちが「わたしどもの信仰を増してください(ルカ17・5)」とイエスに願ったように、私たちも願いましょう。
「主よ、私たちの信仰を一層増してくださいますように」と。