カトリックさいたま教区/CATHOLIC SAITAMA DIOCESE

司教メッセージMESSAGES

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年間第16主日 マルコ 6・30-34

2021.12.18 (日)
兄弟姉妹のみなさん
 今日は、まず、旧約時代の四大預言者の一人エレミヤについて、再び耳を傾けます。エレミヤは紀元前650−585年、ユダ、エルサレム、バビロンとエジプトに住んでいました。エゼキエルと同じ時代に、そして、ダニエルの前の時代にあたります。

第一朗読(エレミヤ 23:1−6):羊を集めて彼らに羊飼いを与える
 エレミヤが伝えることばが、なぜ厳しいものであったのかと言えば、その時代、ユダを治めていた王たち、ホセア、ヨアキム、ゼデキアらの行動を緊急に変えるよう、要求しなければならなかったからでした。そのため、エレミヤは、それらの王やイスラエルの要人たちから、数々の制約と告発を受け、鞭で打たれ、井戸に投げ込まれ、投獄されたのでしたが、無秩序で不正な状況、強制的に移動させられることなどに、エレミヤは忍耐しなければなりませんでした。民も同様に苦しまなければなりませんでした。それは、責任ある人たちや特定のグループが、個人的な利益を得ようとしていたからです。ですから神は、新しい牧者をたてる必要がありました。

第一朗読のメッセージ
 その時代の問題は深刻になっていました。当時の民のリーダーたちは、経済の制度を周りの国に合わせなければならなかったのです。プランがあったのですが、その具体的な糸口を見つけることはできませんでした。特に、世界を統治している人たちの、政治的な意思の統一を図らなければなりませんでしたから。現在の世界では、更にそのような現実があります。不正と移動があります。現代の私たちにとってエレミヤの言葉が、現代世界で正義が行われることを信じるための助けになりますように。
今の時代にも、迫害され、拷問を受けて殺されている預言者がいます。なぜなら、その預言者たちは、エレミヤと同じように、世界の権力者が作り上げた経済制度から阻害され、奴隷状態にされた人たちを神の名によって守ろうとするからです。

第二朗読(エフェソ 2:13−18):イエス・キリストは一つの民とした
 今日の手紙では、始まったばかりの、すなわち、ユダヤ教の世界に誕生したばかりのキリスト者の共同体が直面した問題について、すなわち、キリスト者をユダヤ化しようとする人たちとのパウロたちの闘いのことが述べられています。
私たちはパウロを見るとき、ギリシャ、あるいはローマでの彼の福音宣教は成功したという印象をもっているかもしれません。実際はそうではなく、彼は苦しみ、多くの人々から理解されず、妬まれ、非難され、牢屋に入れられ、鞭打たれ、最後は自分の確信のために殉教したのです。
 パウロの戦いの結果、イエス・キリストによってすべての不正、拮抗、奴隷などを隔てる壁が無くなっていきました。すべての人は民族や文化を超えてイエスにおいて神の子なのだという、パウロの開かれたメンタリティによって、ギリシャ語を話すヘレニズム世界の町々でたくさんのキリスト教共同体が生まれました。イエスの福音が普遍的メッセージをもっていることを、パウロは確信し、人々に伝えたのでした。それによって社会的、政治的、経済的、文化的な壁が取り壊され、すべての男と女を兄弟姉妹になるのだとの画期的なメッセージだったのでした。

福音書(マルコ 6:30−34):イエスは群衆にとっていつくしみ深い羊飼いである
 朗読の最初には、最初の福音宣教から帰って来た弟子たちがイエスのところに集まって来て、自分たちが行ってきたことや教えてきたことを残らず報告した、と淡々と書かれています。イエスが喜びをもってその報告に耳を傾けていらっしゃる美しい情景が私たちの心に浮かびます。報告を聞き終えたイエスは弟子たちの働きのことをねぎらい、休ませてやろうとお考えになり、船に乗って人里離れたところへと向かわれたのでした。
ところが、イエスのこの希望は叶えられませんでした。イエスと弟子たちがそこに着いてみると、周囲の村々から来た群衆が先回りをし、待ち構えていたからでした。イエスはどのように反応したでしょうか。マルコは次のように書いています:「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた」(マルコ 6:34)。
 ここにあるのは、キリスト教共同体に向けて書かれているものです。福音史家が強調していることは、無名な人、誰にも世話をされない人たちに対して、イエスがどのように行動したかを思い起こすよう私たちを招いているのではないでしょうか。

福音のメッセージ
 私たちの共同体は、イエスの眼差しで人を見ることを学ばなければなりません。多くの人たちが孤独、当惑、諦めなどによって苦しんでいることに気付くことの大切さを思い出しましょう。いつくしみとは、苦しんでいる人を注意深く見るということを。
あの当時の人にとって、律法学者たちの姿勢と教え方は、自分たちの生活の中に神の現存を体験させるものではありませんでした。それは、彼らの教えが現実の問題とかけ離れていたからでした。しかしイエスの教えは違います。イエスは、私たちが心を開くなら、苦しんでいる人に気づくことができ、自然と心の底からいつくしみの心が溢れ出て、必要な食べ物を与え、病んでいる人に手を差し伸べることができるとおっしゃるのです。イエスこそ、魂と一体である身体の病を癒す力を持っていた、本当の医者でした。

 私たちもイエスのいつくしみの心に触れる体験が必要です。そうすれば、他の人たちに対して、特に、苦しんでいる人たちに対して、イエスと同じように憐れみ深い者になれるに違いありません。イエスのように、他の人に対して憐れみ深くなれるよう願いましょう。それは、喜びを持ってイエスの弟子として生きることによってこそ実現するのではないでしょうか。