カトリックさいたま教区/CATHOLIC SAITAMA DIOCESE

司教メッセージMESSAGES

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年間第19主日 ヨハネ 6・41-51

2021.12.8 (日)
「わたしは天から降って来た生きたパンである」(ヨハネ6・41)

兄弟姉妹のみなさん
 8月4日から被昇天のマリア様のお祝いまでは平和旬間です。その中の二日間、広島で体験したことが、わたくしの中に今日もまだ新鮮に残っています。ですから、最初にそれをみなさんと分かち合いたいと思います。そして、今日のみ言葉をもって、私たちが置かれている場所で平和の道具になれますように祈りましょう。

8月5日、午後4時、平和のためのミサに参加
 昨年と同じように、このパンデミックの中、8月5日の木曜日、広島のカテドラルで献げられた平和のためのミサに参加することができました。
 福岡教区長であるヨゼフ・アベイヤ司教の司式で、日本の多くの司教方も共同司式をしました。広島教区の司祭たち、限られた数の修道者と信徒が参加しました。カテドラルの鐘の音を聞いた後、祈りの雰囲気の中、祭壇に向かって行列をしました。歌は歌わず、オルガンの演奏のみ。最初に広島教区長アレキシオ白浜司教が共同司式の司教を紹介し、新しい教皇大使であるレオ・ボッカルディ大司教様に歓迎の挨拶をされました。教皇大使は7月16日に来日し、公の儀式には初めての参加でした。説教は教皇大使が準備され、アベイヤ司教が代読しました。広島に原爆が投下されて76年、戦争が残した傷は消えることはありませんが、灰の中から立ち上がった人々の努力と協力の力を強調されました。
新しい建物の立ち並ぶ中や、川の水が普通に流れる場所に身を置いても、原子爆弾が残した傷は私たちの記憶から消えることはないでしょう。ですから、私たちは平和の道具になる努力をしなければならないのです。教皇フランシスコが言われているように、核兵器の製造、保管、使用にNOと言わなければなりません。
 パンデミックの前は、平和公園で若者の祈りの集いがありました。日本の全ての教区から代表の若者が集まり、正教会のキリスト者も参加しました。そこに数人の司教と司祭たちも加わり、祈りの後、歌い、祈りながら、広島カテドラルに向かって歩いていきましたが、街の人々は、それを好奇心と驚きの表情で見ていました。若者たちが道路の全面を使わないように、信号を守るように、警察官が誘導していました。それは若者にとって、信仰を公に表す機会、世界平和の道具になろうとする意思を表す時でした。行列は30分でカテドラルに到着し、平和のミサが始まったのでした。

8月6日 午前8時 原子爆弾と戦争の犠牲者のためのミサに与る
 カテドラルの鐘が一分間ほど深い音を響かせたあと、ミサが始まりました。ミサ開始に先立って、アーサー・ビナードという53歳のアメリカ人の作家が、スクリーンに画像を写しながら、自作の詩、「さがしています」を朗読されました。ミサ後にも、同じカテドラルでその本の紹介がありました。それは原子爆弾がもたらした荒廃から、命について読み取ろうとしている本です。詩と共に描かれている絵から分かったことがあります。爆弾が落されて、まず人がしたことは、身内、愛する人たちを探すことでした。それは未来に向けて希望の道を開いていくことです。
 その日のミサは、典礼的には主の変容のお祝いです。司式は広島教区長でした。同じ時、平和公園では広島市の公の式典が行われ、国や県の政治家、各国の駐日大使が出席し、バチカンの大使として教皇大使が日本司教団の会長と教皇大使秘書を伴って参加されました。
 新型コロナウイルスの感染が治まり、ふつうの生活が始まるときには、「広島の平和の集い」に参加することもできるかもしれません。3日後の8月9日には、長崎で平和の祈りの集いが行われます。しかし、今年は、パンデミックのため、集いは長崎教区レベルに限られています。おそらく、多くの皆さんは、仕事のために、この式典をライブで観ることはできないでしょう。でも、夜に録画をご覧になる時には、平和のために祈ることを忘れないでください。そして、すべてを破壊してしまう爆弾のない世界をつくる努力を約束しましょう。勇気をもって、「核兵器の製造と使用は絶対なし」と宣言しましょう。

神の言葉からのメッセージ
第一朗読:エリヤは40日40夜歩く(列王記上19.4−8)
 エリヤは落胆しています。限界まで追い詰められています。砂漠では水も食べ物もなく、もう前に進む力がありません。自分の弱さを認めます。すると神はエリヤにパンと水を与えます。エリヤは力を取り戻し、40日40夜、神との出会いに向かって歩み続けます。
 私たちも生活の中で前に進む力に不足し、疲れを感じたことがあるのではないでしょうか。しかし、私たちが弱いと気づいた時こそ、神の助けをもっと強く求めなければなりません。神は私たちを決して見捨てないのですから。世界中で、戦争を避けるための働きをしている人々が、対話に疲れを覚えませんように。国々の間に平和の道を開くため、必要な知恵が与えられますように。

第二朗読:あなたがたも愛によって歩みなさい(エフェソ4・30−5・2)
 憎しみ、中傷、他の人に悪を望むことを避けなければなりません。反対に、一致を築く者になる。他の人の欠点を慈しみの心で赦しながら。この手紙は、一致のために苦難の道を歩む共同体、互いに赦し合うことを忘れ、互いにあわれみを持てなくなった共同体に向けて書かれています。一致の姿勢が私たちの中に芽生えるためには、神の助けを願わなければなりません。私たちの、「こうであったら良いな」という希望だけでは十分ではありません。愛に生きる一致の建設者、世界平和の建設者になるためには、神からの力を必要としています。

福音:わたしは生きたパンである(ヨハネ6・41−51)
 イエスの知り合いや近所の人にとって、イエスが「わたしが命のパンである、これを食べなければ永遠の命を得られない。」と語られたことはスキャンダルでした。イエスはただの農民であり、大工の息子である。良い隣人ではあるけれど、どうして自分が神であると言えるのか。これは神に対する冒涜である、と彼らは考えました。しかし、イエスが当時の人々のひんしゅくを買ったように、現代にあっても同じことになるのではないでしょうか。他の人々はイエスが狂っている、あるいは宗教的狂信者、危険人物であると決めつけるでしょう。

 教会の歴史から考えられるように、2千年後の今、人々は、イエスを信じることによって、生き方やものの見方に大きな変化が齎されることを知っています。世界を権力と金で支配しようとする人たちに対して、キリスト者はイエスの福音を宣言します。ですから、教会では、いつの時代も、信仰の証し人たちが、イエスの教えに従って、より平和な世界を築こうとしてきました。そのために拷問を受け、迫害され、殺害されています。キリスト者としての喜びをもって生きていくためには、真の人間であり、神である、受肉したイエスで養われなければなりません。エリヤが砂漠で神のパンに養われたように、私たちもこのパンデミックの中、命の言葉とパンであるイエスで養われるようにしましょう。