カトリックさいたま教区/CATHOLIC SAITAMA DIOCESE

司教メッセージMESSAGES

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年間第25主日 マルコ 9・30-37

2021.12.19 (日)
兄弟姉妹のみなさん、
今年の日曜日は、主にマルコ福音書を通してイエスの道を歩んでいることに、皆さんもお気付きかと思います。それは教会の典礼が、できるだけ聖書に親しめるようにと、主日のミサの朗読箇所が3年周期(A年・B年・C年)となっているからです。A年には主にマタイ、B年にはマルコとヨハネ、C年にはルカ福音書が読まれ、福音史家たちが記したイエスの重要な出来事や教えを、年間を通して聞くことができます。どの年であっても、それぞれの福音書の朗読に耳を傾けながら、イエスの生涯をたどり、イエスをもっと知り、私たちがキリスト者としてどのように歩まなければならないか、その道を学ぶことができます。

 B年の今年、先週の日曜日をもってマルコ福音書の第二部に入りました。これはイエスのエルサレムに向けての最後の旅、そして、父である神からの使命を成し遂げるための旅が語られます。ペトロがみんなを代表して、イエスに対する信仰宣言をして、メシアとして認めた後、イエスは最後に起きることについて明らかにされました。福音史家は死と復活について三回の予告を載せています(マルコ 8、9と10章)。この時点でイエスは、最後に起きることに関して更に明確に伝えます。今日は、二回目の予告がされた箇所が読まれました。弟子たちは、「人の子は➖イエスがご自分のことを言い表されるとき、こうおっしゃるのですが➖、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する。」(マルコ 9:31)。「弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。」(マルコ 9:32)とのイエスのことばの意味が分からなかったが、怖くて尋ねられなかったとありました。

イエスと弟子たちの間には、内的に深い溝がある
ですから、イエスと弟子たちの間に内的に深い溝、隔たりがあることは明らかです。周波数が全く違っていると言えるかもしれません。イエスの教えを理解できない、ただ表面的なことしか分からないのです。ペトロはイエスに対する信仰を表した直後にも拘らず、イエスが、ご自分は拒否され、殺されることになると予告されるのを聞くと、イエスを諫め、イエスに叱られてしまったのでした。

 この二回目の受難の予告の後、弟子たちは誰が一番偉いか、議論しています(マルコ 9:34)。そして、三回目の予告の後には、イエスが栄光に入られた時、右と左に座らせて欲しいと頼むヤコブとヨハネの姿が描かれます。

 その他にも、内的距離の隔たりの印があります。例えば、弟子たちは、癲癇を患っている若者を癒やすことができませんでしたが、イエスは祈りの力によってその人を癒します(マルコ 9:14−29):また、弟子たちは、イエスのところに連れてこられた子どもたちを遠ざけようとしましたが、イエスは彼らを受け入れ、子どものようにならなければ、天の国に入ることはできないと、諭されました(マルコ 10:13-16)

 神の論理は、私たちのそれとは違うということを思い出させます。預言者イザヤを通して、神は啓示されています。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり わたしの道はあなたたちの道と異なると主はいわれる。」(イザヤ 55:8)。イエスに従うためには、深い回心が求められています。考え方、そして、生き方の変化。言葉に心を開くこと、そうすれば、私たちはそれによって照らされ、内的に変化されるのです。

 神と人間の違いは、神には高慢さがないことです。神は完全で、満ちておられ、すべてを愛し、命を与えます。それに対して、私たち人間の中には高慢さがあります。高慢さが私たちに深く根付いていますから、常に注意して、清められる必要があるのです。私たちは小さい者でありながら、大きく見せようとします。神はまことに偉大です。ですから、謙虚であって、後になることを怖れません。フィリピの教会への手紙にあるとおりです:「キリストは神の身分でありながら、へりくだって、従順でした。神はキリストを高く上げ」(フィリピ 2:6−11)。

第二朗読(ヤコブ 3:16〜4:3):共同体の中での妬みと争い
 最初のキリスト者たちは、マルコの福音書のこの出来事のことをよく知っていました。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、全ての人に仕える者になりなさい。」(マルコ 9:35)とのイエスの言葉は暗記していたことでしょう。にも拘らず、彼らの共同体では、よく妬みや争いの問題が生じていたというわけです。メンバーの中にそのような要求を持っている人がいたからです。

 ですから第2朗読で、ヤコブは今日の共同体のキリスト者である私たちに思い起こさせています「ねたみや利己心のあるところには、混乱やあらゆる悪い行いがあります。上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです。」(ヤコブ 3:16−18)。この言葉は、謙遜と沈黙をもってイエスの模範に従い、他の人のために命を与えるという、キリスト者の証しを私たちに考えさせます。イエスのように、神の愛といつくしみの奉仕者として働くこと、それによってこそ、本当の平和の道具になれます。

 イエスに従うことは簡単なことではありません。弟子たちにとっても難しいことでした。しかし彼らは、聖霊降臨の後、イエスの言葉を理解しました。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」(マルコ 8:35)。ですから、彼らは迫害されることを怖れず、拷問を受けた後、キリスト者であることを告白しながら死んでいきました。

第一朗読(知恵 2.12.17−20):正しい人がこの世において本当の賢者である
 福音書とヤコブの手紙を少し黙想した今、知恵の書が述べている、「正しい人が、嘲笑われ、拒否され、社会から阻害された」ことを、私たちは理解することができるのではないでしょうか。多くのキリスト者も、同じ経験を繰り返すかもしれません。職場、あるいは家庭内で、良い人であること、寛大さ、親切、寛容、そして忍耐強いからこそ、そのような経験をすることもあります。イエスの教えによると、第一朗読の正しい人は真の知恵ある人です。最も弱い人(病人、老人、孤児など)の傍で働く人、自分の生き方によって、権力ある人や金持ちに向かって、もっとみんなのことを考えるように訴える人こそ、社会で恵まれない人に対して寛大です。自ら実践することで示す人なのです。

聖母マリアと聖ヨセフに願いながら終わりましょう。
今の社会で、まだイエスの福音を知らない人たちの中で、私たちがイエスの弟子であることを恥ずかしく思わず、喜びを持って福音を生きることができますように。