司教メッセージMESSAGES
「聖パウロ年のミサ」
2009.12.22 (月)
すでに皆さんはこの1年間、パウロに関する勉強会、講演会、「聖書の旅」、パウロを保護の聖人とする教会への巡礼を企画し、聖パウロに親しんでいただいたことと思います。パウロから多くのことを学び、また聖パウロに共感されたことと思います。ここで、わたくし自身もパウロに共感したことを分かち合い、皆さまとともにパウロ年最後の時を共にしたいと思います。
「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」(使徒9:4)
イエスはこのようにパウロに言葉をかけられました。パウロは、自分自身のイエスのとの出会い、回心について書簡(ガラテヤ1:11)でも分かち合っていますが、また多くの兄弟姉妹にも話し、分かち合っていました。その分かち合いは多くの人々に共感を得たのでしょう。使徒言行録(9:1~30)にもその感動が手に取るように分かるよう、詳しく述べられています。そして、福音宣教を使命とするパウロにとって、自分自身のことを分かち合うことが福音宣教の始まりでもあったのです。
わたしたちは自分自身のイエスとの出会い、回心について分かち合うチャンスがあるでしょうか? 私自身はたびたび「なぜ司祭になったのか?」という質問を受けることがあります。時間がゆるせばそのことについて分かち合います。それと同様の質問が、司祭のみならず信者の皆さんにも問いかけられることがあると思います。「なぜ洗礼を受けたの?」 幼児洗礼の方にも「なぜ教会に行くの?」と問いかけられます。そうした時に、ためらわず、恥ずかしがらずに自分自身のキリストとの出会い、回心、人々との出会い、み言葉との出会いを分かち合ってみてはいかがでしょうか?
自分の話をすることが分かち合い、宣教の始まりです。わたしもみなさんと互いにゆっくりと分かち合うことができればと願っています。それがわたしたちの宣教の出発点となるのですから。
「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。互いに思いを一つにし、高ぶらず、小さくされた人々と交わりなさい」(ローマ12:15,16)
使徒たちの柱と目されていたヤコブ、ケファ、ヨハネからパウロが異邦人への福音宣教の使命を受けた時、一つの注文が付けられました。それは次のように記されています。「貧しい人たちのことを忘れないように」。これはパウロも心がけていたことでした(ガラテヤ2:10)。
パウロは、このことを忘れず、常に「貧しい人たち」への奉仕を実践していました。ローマで監禁されていたとき、信徒の有力者フィレモンのところから逃げてきた逃亡奴隷オネシモに出会います。逃亡奴隷は死刑(十字架刑)と定められていました。しかし、パウロはオネシモをかくまい、愛する兄弟のように接し、洗礼を授けます。そして、彼がいつまでも隠れて生きるのではなく、社会に復帰するために、主人フィレモンのところに送り返す手紙まで書いています。「フィレモンへの手紙」です。パウロは日常生活の中で、こうした「小さくされていた人々」を一人ひとり大切にしていたことがうかがえます。
また、パウロはエルサレムの「聖なる者たち」のために募金を呼び掛け(コリント16:1)、また彼自身もその愛徳の奉仕に参加する希望を述べています(ローマ15:25)。ここで言われている「聖なる者たち」とは「小さくされている人々」「貧しくされた人々」のことを指しています。(注)
ペトロもリダという町に住んでいる「聖なる者たち」のところへも訪問しています(使徒9:33~35)。初代教会では「聖なる者たち」という言葉が特別の意味をもって使われていたのです。ここで重要なことはパウロがあえて「小さくされた人々」のことを「聖なる者たち」と呼んだことです。パウロは次のように説明しています。「異邦人はその人たち(聖なる者たち)の霊的なものにあずかったから」と。「小さくされている人々」との交わりが共同体を霊的に豊かにした。だからこそ、「聖なる者たち」と呼んでいるのです。
このことは、オープンハウス、イースターヴィレッジの活動をはじめ、牛久の入管収容所、病床訪問、お年寄り訪問、さまざまな「小さくされた人々」と連帯して奉仕している人たちにはすぐにピンとくるはずです。また、昨年暮れから起こった派遣切りの人たちと共に歩もうとしている教会のメンバーも同様だと思います。
1999年にさいたま教区の司祭団は21世紀に向けたさいたま教区のヴィジョンを策定しました。そのメインテーマは「すべての人々と共に…特に小さくされた人々と共に」でした。そのテーマに沿って、さいたま教区は歩んできました。そして皆さんがそのために喜んで犠牲を払い、奉仕して来てくださったことにわたくしは心から感謝しています。パウロの勧めを具体的に歩んでいるわたしたちが、いま、神様の豊かな祝福をいただいていることを共に喜びたいと思います。
「わたしは、あなたの涙を忘れることができません」(テモテ二1:4)
パウロの歩んでいた姿に共感するところをあげればきりがありません。この言葉はテモテ個人に向けて送られた手紙の一文ですが、こうした言葉の一つ一つにパウロが、いかに一人ひとりを大切にしたか、いかに一人ひとりと深くかかわっていたかがわかります。わたくしも、皆さん一人ひとりとパウロのように接することができればと願っています。
テモテへの手紙二の最後には、パウロ自身も少し弱音をはいて、テモテに助けを求めています。パウロも弱さや、苦悩をもって歩んでいました。わたしたちも皆、弱さを持つ人間です。互いに兄弟姉妹として助け合い、許し合い、共に喜び、共に泣く共同体として歩んでいくことができれば幸いです。
わたくしは皆さんにパウロの3つの言葉を分かち合いました。皆さまもそれぞれの小教区やブロックで分かち合っていただきたいと思います。
(注)聖書を詳しくみると、「聖なる者」(単数)と「聖なる者たち」(複数)とは区別されています。単数の時は文字通りの意味ですが、複数の時は「小さくされた人々」「貧しい人々」を指しています。