カトリックさいたま教区/CATHOLIC SAITAMA DIOCESE

司教メッセージMESSAGES

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四旬節第2主日 ルカ 9・28-36

2022.12.13 (日)
兄弟姉妹のみなさん、
 四旬節第2の日曜日の典礼は、イエスの変容のエピソードが中心になっています。ルカによるこの箇所は、師であるイエスが、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(ルカ9・23)、と招いた直後のことです。今日深める、この特別な出来事は、困難の中でイエスに従っている弟子たちを元気付けるためでした。
 しかしこの日曜日の言葉、三人の弟子たちがイエスの変容によって体験したことは、私たちが今直面している祈りの中で生き続けています。それは特別に、ロシアがウクライナを破壊しようとする戦争の武器を早く捨てるように、という私たちの祈りです。ウクライナは隣国として、ロシアと同じ民族的な根源があり、同じ宗教(正教)の人々の国です。

教区として、特にさいたまカリタスを通して、共に助け合いの歩みを始めるため、一昨日(金)午後2時から浦和教会で集いをしました。そして、あの東日本大震災の発生時刻14時46分に鐘の音と共に1分間の黙想の後、2011年3月11日の東日本大震災の犠牲者とその家族のためのミサを献げました。

福音朗読(ルカ9・28b−36):山で、イエスの変容
 ルカ福音書で語られるイエスの変容の箇所は構造的に3つの部分があります。山に登る、その光景、そして、短い最後の部分です。

山に登る(ルカ9・28b)
 イエスは三人の弟子だけを選びます。ぺトロ、ヤコブとヨハネ。マルコとマタイは、高く、離れた山での出来事であった、と言っています(マルコ9・2、マタイ17・1)。ルカは、しかし、ただ祈るために山に登られた、と言っています。ルカは「高さと、離れたところ」には興味がないように見えます。人生の重要な時には、祈ることが大事。ルカは、どの山に登ったのかは書いていません。しかし、キリスト教の伝統では、タボル山と言われています。ですから、私たちは、イエスの変容はタボル山での出来事、と言います。

光景(ルカ9・29−36a)
 出来事は、5つの要素を通して頂点へと導かれます。イエスの顔と衣服の変化、モーセとエリアの出現、会話のテーマ、みんなを覆う雲、そして天からの声が、聞こえる。
これらの要素に関して短いコメントをします。

イエスの衣の白さ
 ルカはまず、イエスの衣の白さを強調しています。祈っている時にそれは変化します。変化は衣服だけではなく、顔に集中しています。これは復活されたキリストの出現の前触れです。イエスの顔が確認される難しさがあります。マグダラのマリア、エマオの二人の弟子たち、そして、湖での弟子たちもそうでした。

モーセとエリヤの出現:
 モーセは、神と自分の民との間の偉大な仲介者、神と顔を見合わせて話していた預言者です。モーセなしには、イスラエルの民も、その宗教も存在しなかったでしょう。
 エリヤは紀元前9世紀の一番大きな危機の時、カナンの影響によってイスラエルの宗教が負けそうになった時、宗教を救った預言者でした。エリヤなしでは、モーセが作り上げたすべてが崩れてしまったでしょう。ですから、ユダヤ人たちは、この二人の人物を特別に位置付けていました。二人の出現よって、イエスが異端者でないということを保証します。何世紀にもわたる宗教的な働きを壊さずに、昔の預言者と同じ線上に、それを完成するためにイエスがいたのです。

話し合いのテーマ:
 ルカは、イエスがエルサレムで完成される「旅立ち」について話し合っていた、と言っています。ここには二つの意味の「旅立ち」があります。死を通しての、そして昇天をもってもう一つの命に旅立つことです。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。」とペトロが言いました。十字架を背負っての最期までイエスに従うより、この高い山に留まる方を好ましいと思ったのです(ルカ9・33)。

・シナイ山のように、この山も雲に覆われています。
・神の言葉は、イエスの洗礼の時に言われた言葉を思い起こします「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(ルカ3・22)。今回はイエスに向けてではなく、三人の弟子に向けられています。「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」(9・35)。ルカは、「愛する」という言葉を「選ばれた者」と変えます。天からの声は、イエスに従うことは狂気ではなく、神の計画に叶っていること、と言っています。

終わり:
 山から降りている時、マルコはイエスの命令を導入します。見たことに関して沈黙を守るように。そして、エリヤの現れについて、律法学者たちが言っていることに関しての一つの質問があります(マルコ9・9−13)。しかし、ルカはイエスの命令を記さず、ただ、その実現に関して記しています。「弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。」(ルカ9・36)

今の私たちへのメッセージ:私たちの生活においての祈りの優位性
 福音書の箇所を黙想しながら、大切な教えに触れることができます。まず、祈りの優位性。これなしでは使徒職や愛徳は、単なる行為になってしまいます。四旬節で、個人的に、また共同での祈りに時間を費やすことを学びます。これが私たちの霊的生活に元気を与えます。祈りは、ペトロがタボル山で望んだように、この世とそこにある矛盾から離れることではありません。祈りは、本当の道に導き、選んだところに戻すのです。
 「キリスト教生活は、常に神と出会うための山に登ること。それによってまた、山から下りて、愛と力を持って、そこから頂く同じ愛で兄弟姉妹に仕えることです」(ベネデクト16世)。

第一朗読(創世記15・5−12、17−18):神はアブラハムと契約を結ぶ
 四旬節の日曜日には、重みがある聖書の箇所が選ばれています。ユダヤキリスト教信仰にとっての、重要な要素、あるいは側面に関して。神とアブラハムとの契約についての今日の箇所は、明らかです。契約は全ての始まりです。そこからイスラエルが民として始まり、アブラハムの子孫からイエスが現れました。そして、西洋の国々のキリスト教全て(イスラムを含めて)がそこから生まれました。そして、その文化はアブラハムのDNAを持っていると信じています。これらすべては、ある意味、人類の半分が、神から選ばれ、愛されたこの家長の影響を受けていると言えます。(人口の54%がキリスト教とイスラム教で占められています)

第2朗読(フィリポ3・17−4・1):キリストが私たちを変容される
 パウロは、キリストの十字架を拒否するフィリピの人たちに注意を払います。彼らは偽のキリスト者だからです。十字架に付けられたキリストを瞑想するなら、ローマ帝国の社会でキリスト教の使命がもたらす困難を乗り越えることができる、と強調しています。多くの人が、イエスのように迫害によって死ぬことになるかもしれません。しかし永遠の命に復活することができます。イエスに出会って私たちの人生が変容され、十字架に付けられて復活されたイエスから、決して離れることはできません。

 最後に、聖母マリアの取り次ぎを願いましょう。私たちはイエスに従い、最も必要としている兄弟に、祈りと愛の業を向けましょう。特に、ウクライナの人たちと心を合わせて。彼らは戦争によって何も持たず、自分の国を出て、受け入れてくれる近隣の国に行かなければならないのです。その人たちに思いを馳せ、心を一つにすることができますように。