カトリックさいたま教区/CATHOLIC SAITAMA DIOCESE

司教メッセージMESSAGES

←前の年 2022年  次の年→ 

年間第14主日 ルカ 10・1-12、17-20

2022.12.3 (日)
兄弟姉妹の皆さん

第1朗読(イザヤ66・10-14c): 平和を大河のように
 第一朗読は第三イザヤと呼ばれている箇所からで、追放の苦い期間から生まれ変わったイエスラエルの民のよろこびを、出産のイメージで表しています。そして、生まれたばかりの子どもが、母親の慰めの乳房から飲んで、その腕に置かれ、膝の上で可愛がられるように表現されています。子どもが母親の腕の中で慰められるように、イスラエルは神の手の中で慰められる。
 母である神の姿が預言者たちに好まれています。神の愛について話す時には 家族や父母、子どもたちを表すことが、一番わかり易いのではないでしょうか。
 聖書は神について語る時、神の性は決められていません。この言い方と翻訳は男性社会的な条件の中にあります。しかし、神を単なる男性として扱っているのではなく、特に預言者たちにとって、神は母性的な姿で紹介されています。父である神をシンボル的に解釈しなければなりません。父というのは、母性形質をもった家父長制のシンボルです。全てにおいて、初めと終わりである人間性を超え、性を超えているのです。

 ホセア書の11章に、神の愛についての経験について語る旧約聖書の中で最も美しい箇所があります。預言者ホセアは主がイエスラエルの民に関して父母の役割を果たしていると言っています。他の預言者たちも、神を母、父の姿で紹介しています。泣きながら帰ってくる子どもたちを慰める神。躓かないように、平らな道を歩ませる神(エレミヤ31・9)。「エフライムはわたしのかけがえのない息子 喜びを与えてくれる子ではないか。彼を退けるたびに わたしは更に、彼を深く心に留める。彼のゆえに、胸は高鳴り わたしは彼を憐れまずにはいられないと 主は言われる。」(エレミヤ31・20)と警告する神の痛み。
 この神の愛情は、イザヤ書には、母の姿で特別に表現されています:「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも わたしがあなたを忘れることは決してない。」(イザヤ49・15);「母がその子を慰めるように、わたしはあなたたちを慰める。」(イザヤ66・13)。
 民は自分たちを神の子として実感していました。出エジプトの最初の救いの経験から、主は、ファラオに次のことを言うようにとモーセに命令しました:「『イスラエルはわたしの子、わたしの長子である。わたしの子を去らせてわたしに仕えさせよと命じたのに、お前はそれを断った。それゆえ、わたしはお前の子、お前の長子を殺すであろう』と。」(出エジプト4・23)。父である神についての経験が、イスラエル人に自信を与え、孤児であることを感じさせなかったのです。
 神が父であることは、神と特別な関係を持ち、守られていること、貧しい人、罪人、孤児、やもめたち、即ち父母の愛なしでは救いを待ち望めなかった人々、最も弱い立場に置かれて他の人々から見捨てられた状態の人たちを、神が特別に見守っていることを預言者たちは表しています。

第二朗読(ガラテヤ6・14−18):イエスの焼印を身に受けているのです
 パウロは、ガラテヤの最後のところで二つのテーマを扱っていて、救いは律法を守るから得られるのではなく、キリストの愛によって私たちが新しい人に変えられる、と言っています。
律法によると、人は救われるためには割礼を受けなければなりませんでした。しかしパウロは、救いは律法から来るのではなく、死んで復活したキリストによるものだと強調しています。割礼を受けるか受けないかが、重要でないことを強調しています。大切なことは、キリストにおいて新しい人として生まれ変わること。律法の世界は死んでしまい、キリストによって生まれた者にとって、ユダヤ人と異邦人に違いはありません。割礼を受けている人と受けていない人、ではなく、「新しい人」となった人にとって、イエスに合わせた新しい生き方を始めることが最も重要なのです。
十字架は、ローマ人、異邦人とユダヤ人にとって、不名誉のしるしでした。しかしキリスト者にとって、それは勝利と救いの印です。ですからパウロはそれを誇りとし、私たちキリスト者も同じです。なぜならそこから命が湧き出るからです。

福音(ルカ10・1−12、17−20):働き手が少ない
 イエスは弟子たちを二回目のミッションに派遣します。収穫の時が来た。その実りを集めるために、たくさんの働き手が必要です。任命されたのは72人。この数字は創世記の10章にあり、そこに72の異邦人の国々が現れています。イエスはエルサレムに向けて歩んでいます。この道は、将来の教会の歩みのモデルでなければなりません。二人ずつ出かけて行きます。ユダヤ法によると、法的に認められるためには二人の証人が必要でした。(申命記17・6、19.15参照)
 ミッションは簡単ではありません。貧しさの中で行われなければなりません。袋も食べ物も無く。
ミッションには緊急性があり、何にも妨げられてはなりません。途中で挨拶するために立ち止まることもなりません。弟子たちは、自分たちの話を人に強制してはなりません。そして彼らは神の国が近くにあることを宣言しなければなりません。

 この福音宣教のモデルは今も有効です。確かに、イエスの福音に忠実であることは難しい務めです。教えに対する間違った理解によって、福音の本質から離れたことをしてしまうことがしばしばあります。
 「弟子たちがミッションから戻ってきた時、喜びでいっぱい」という表現に関して注意しなければなりません。弟子たちは、「悪魔さえ、あなたの名に屈服しました。」と報告します。悪魔とは、どのような意味なのでしょうか。短い説明が最後にあります。イエスは悪の力に打ち勝った喜びを表します。なぜなら、いかなる方法でも支配する力を拒否されるからです。この世のことで自慢しないように勧めています。大切なことは、天に名を記されていること。即ち、神の国の要求に応え、それによって生きること(出エジプト32・32)。
 父が祝福してくださる、もう一つの喜びの動機があります。弟子たちは、神の国が最も小さき者と謙遜な者に啓示されているモデルです。神の国の体験は、知識によるものではなく、それはイエスとの親密な関係と、イエスに従うことからのものです。

心を合わせて祈りながら終わりましょう
天の父母である神が、優しさと愛を持って受け入れてくださる確信と私たちの願いを、このミサの食卓に捧げましょう。
・ 教会のために祈ります。あなたのみ旨を啓示し、今日世界のために、あなたの言葉を運ぶ小さき謙遜な者を受け入れることができますように。
私たちの祈りを聞き入れてください。