カトリックさいたま教区/CATHOLIC SAITAMA DIOCESE

司教メッセージMESSAGES

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年間第2主日 ヨハネ 2・1-11

2022.12.16 (日)
兄弟姉妹のみなさん、
 今日の福音ではカナの婚礼のできごとの箇所が読まれました。この出来事の証人であるヨハネだけが、これを取り上げています。「カナの婚礼」のエピソードはイエスが最初に行った奇跡ですが、降誕直後の東の学者たちの訪問と、イエスの洗礼と併せて、キリストの公現のしるしとなるもので、それによって、イエスの栄光が公に表わされ、弟子たちはイエスを信じるようになったのでした。

福音(ヨハネ2・1−11):イエスはカナで、ご自分が誰であるかを示し始められた
イエスと母は、弟子たちと共にガリラヤのカナの婚礼に招かれました。祝宴は順調に進んでいるように見えます。しかし、この喜びのお祝いを続ける上での重大な問題が起きます。葡萄酒が足りなくなったのです。イエスの母マリアは、これを息子のイエスに知らせました。イエスは、まだ時が来ていないと答え、即座にはマリアの願いに応じませんでした。そして、6つの水がめに水をいっぱいにするよう言いつけただけでしたが、その水を宴席に運んでみると、最高の葡萄酒、今までよりもっと良い葡萄酒に変えられていたのでした。

 イエスの人生は、それまでは、1世紀のユダヤ文化と宗教の環境の中で、普通に流れていたのでしょう。つまり、弟子たちはイエスを普通の人として受け取り、特別な奇跡を見ることなく他の人々と変わらない生活をしていたと思われます。そのおかげで、イエスと弟子たちの間には大きな隔たりもなく、ごく当たり前の人間的な生活にしておられ、その関係のおかげで、イエスを通してすることのできた神体験にもっと信憑性を持たせ、イエスへの近付きやすさを損なうことはなかったのではないでしょうか。
 イエスの姿勢は、特別なものを求めず、神についての新しいイメージとコンセプトを啓示していきます。神はかけ離れた遠い存在ではなく、人を怖れさせるものではなく、イスラエルの最初の神の特徴を思い起こさせる、民と共に歩む神ことを示そうとするのでした。

6つの空の水がめ(ヨハネ2・6−7)
 イエスがガリラヤのカナで行った最初の奇跡の大切な点は、単なる「葡萄酒の不足」ではありません。中心は中にあるものが違うことなのです。この出来事は、神の国、メシアを待ち望む当時の人々の力強い活力の中で理解されなければなりません。
家の、ある場所に水がめがあったこと、それらが6個であったことそして、水がめが空であったことが強調されています。この水がめは、ユダヤ人の清めの儀式のための水を入れる物でした。それが、空で、乾いている。ユダヤ宗教がその当時、乾いていることを象徴的に示しています。
 初代のキリスト者のビジョンによると、ユダヤ教は当時、人々の思いを助けるより、神と民との関係を妨げていました。「空」で、無意味な「法」、すなわち、「律法という名のくびき」でした。人に重荷を背負わせ、自由と喜びを妨げていました。清めのための水がめは、古い「法」の支配のシンボルです。この「法」は神との関係を難しくし、弱くし、意味のない、冷たいものにしました。

葡萄酒でいっぱいの水がめ(ヨハネ2・9)
 水がめに水が入っていたとは言われていません。イエスが指示した時に、水が入れられました。空の水がめは何の役にも立たず、逆に、場所を塞ぐだけで、人の毎日の生活の妨げになっていました。それが水で満たされると、イエスの計画の実現が可能となったのです。水は葡萄酒に変わったのです。
 このしるしは何を示しているのでしょうか。儀式、律法主義、冷たい空の規律が葡萄酒に変えられ、それは喜びのシンボル、救いの喜び、神の国の新しい訪れを告げ知らせます。イエスが始められた、解放、包括、そして祝いのダイナミズムに入るためには、まず、私たちの生活や、共同体生活の中の人間性を破壊するだけの宗教的制度を終わらせなければならなかたのです。

今日の第一と第二朗読に関する幾つかの提案
 カナの婚礼の黙想を一層豊かにするために、第1と第2の朗読箇所と答唱詩篇をも併せてお読みになるといいと思います。
第1朗読(イザヤ62・1−5):神はあなたを喜びとされる
答唱詩編(詩篇96):全ての国にその栄光を語り
第2朗読(コリント12・4−11):同じ唯一の“霊”は望むままに働かれ、それを一人一人に分け与えてくださるのです。

 神がイエスを通して、聖母マリアの取り次によって、結婚したばかりの人たちを助けられたように、神は、長い歴史を通して、ご自分の民をよく守り、彼らの必要性に応えてくださったのです。そして、民は、祈りや歌を通して、素晴らしい神の業が彼らの中で行われたことに感謝します。
私たちも、いただいているたくさんの恵みを、いつも神に感謝いたしましょう。そして、パウロが指摘しているように、コリントの共同体にそうであったように、神様はキリスト教共同体の建設のために無くてはならない賜物をも豊かに下さるはずですが、それらの賜物が本物であるのかどうか、識別する必要があります。いつも自分のためでなく、共同体の利益になっていなければなりません。

 今日のまとめのために簡単な質問をしましょう。
・ 今日、私たちにとっての神からのしるしは何でしょうか。今日、どこで水が葡萄酒に変わっていますか。
・ 今日イエスはどこでしるしを与えていますか。どこにイエスが現存し、弟子たちを通してしるしを行なっていますか。

キリスト者の一致のための祈り
 最後に、1月18日〜25日の「キリスト者一致の祈りの週」について触れたいと思います。心を合わせましょう。私たちはキリスト者と呼ばれていますが、さまざまな歴史的理由で、目に見える一致にはまだ長い道のりがあるかもしれません。歴史的な分裂やその傷はまだ癒されず、それを乗り越えることもできていません。祈り続けなければなりません。そして、この一致と同時に、世界平和を願わなければなりません。無防備な民間の人の虐殺が一日も早く終わるように、全ての暴力がなくなり、勇気と忍耐をもって対話と交渉が行われますように。