カトリックさいたま教区/CATHOLIC SAITAMA DIOCESE

司教メッセージMESSAGES

←前の年 2022年  次の年→ 

年間第4主日 ルカ 4・21-30 世界こども助け合いの日

2022.12.30 (日)
兄弟姉妹のみなさん、
 今日は新しい年の1月最後の日曜日になりました。教会の典礼は年間第4主日を迎えています。私たちの教区では、先月の16日から、感染拡大速度がとても速いオミクロン株の影響で、多くの都道府県にまん延防止等重点措置が宣言され、さいたま教区では、日曜日の公開ミサが休止になっています。たとえワクチンの接種を受けていても、可能な限りの注意をしていても、感染しないとの保証はないことは確かです。もし、皆さんの傍にコロナのために困難に遭遇している方があったなら、どうか、力を貸してあげてください。そのとき、きっと神の祝福と感謝があることでしょう。
「わたしの口は恵みの御業を 御救いを絶えることなく語り」(詩篇71・15)。

 私たちの教区では、3月からは公開ミサを再開し、3月2日の灰の水曜日から四旬節を迎え、新しい年の復活祭の準備を始めることができるようにと願っています。そう願いながら、日本の司教団が勧めている祈りを続けましょう。

第1朗読(エレミヤ1・4–5、17−19):異邦人の預言者としてのエレミヤの召命
 第一朗読は預言者エレミヤの章です。二つの部分があります。第一部、4〜5節は、エレミヤの召命について、第二部、17〜19節ではエレミヤの預言者としての派遣が語られます。エレミヤの召命は、最初から神の呼びかけの特徴があります。預言者は民にメッセージを告げるために神から呼ばれました。神はエレミヤが生まれる前から彼を知っています。神は彼を聖別された、すなわち、彼が生まれる前からご自分のものにされたのです。
 17節から、エレミヤは「旅する神のメッセンジャー」になったことが語られています。すなわち、自分の民の預言者になっただけではなく、イスラエルの国境を超えて宣言しなければなりませんでした。ですから、神が言われることを公に伝えようとするとき、常に問題をはらみ、危険でした。なぜなら、多くの人々や社会的組織の方向性に反対しなければならなかったからです。その人たちの利益に触れる危険があったのです。神は彼に、怖れずミッションに取り組むように言いました。エレミヤだけでなく、私たちにも与えられている預言者としての使命には怖れが伴っています。大事なことは、使命を捨てないこと。困難な時に、神はいつも助けてくださるからとの信頼が、キリスト者としての使命を支え、勇気と継続性を与えます。エレミヤの物語は、預言者を本当に支える力は、神の声に対する従順、それによってこそ、神から頼まれたことを民に伝えることができたのだと教えてくれています。

第2朗読(①コリント12・31-13・1−13):愛は決して滅びない
 この美しい愛の賛歌は、神様が与えてくださる特別な賜物、カリスマに対する議論が背景になっています。この賛歌は3つの部分に分けられます。1〜3節が第一部。いくつかのカリスマが、そこに列んでいます。カリスマは愛がなければ無に等しい、とあります。第二部は4〜7節で、キリスト教的愛の15個の特徴が書かれています。7つはポジティブ、8つはネガティブなことです。第三部は8〜18節で、パウロは、愛の永遠性を再び確認して終わっています。すべてが変わろうとも、愛だけが変わらない。愛は永遠である。信仰、希望と愛の中で、愛が一番優れたものである、と。
パウロが強調しているのは、愛こそが全てに優る賜物であるということです。そして、パウロが言う愛とは、ヘレニズム世界が謳歌した愛(エロス)ではなく、イエスが教えてくださった愛(アガペ)です。仕える愛、兄弟姉妹のために命を差し出す愛、敵までも愛するもの。この愛がなければ、どんなに優れたカリスマでも意味がない。愛なしでは、預言的な言葉も空にすぎないのです。
 このパウロの愛の賛歌は、さまざまな言語で歌われています。確かに、歌うことによって、さらに心に深く響いてくるのです。

福音朗読(ルカ4・21−30):医者よ、自分自身を治せ
 先週の日曜日の福音朗読は、イエスが預言者イザヤの書を読まれた後、そこにいたすべての人が彼に目を注いだ、と言う文章で終わっていました。今日の福音書はその場面の続きで、す。これはナザレの会堂での出来事です。イエスは、このイザヤの言葉がご自分に実現している、すなわち、御自身が油注がれたもの(メシア)である、貧しい人や圧迫されている人に良い知らせを、主の恵みの年を告げ知らせるために来たことを告げます。
22−30節は次のように分けられます。22節は人々の反応。23−27節はイエスの返事。28−29節は、イエスに対するナザレの人たちの憤慨。そしてイエスを殺そうとすること。30節、イエスは道を進まれる。
 興味深いのは22節と、28−29節の人々の反応のコントラストです。初めに人々は賛成します。そして驚きます。同じ村の出身であるイエス、その人のことで驚きます。身近な人に過ぎないイエスの口から出る、神の恵みを見ることはできません。イザヤが告げた預言者をも見ることができない、見えたのは、ヨセフの子ではないか、ということだけでした。村人たちの関心はイエスの言葉にはなく、その行い、特に奇跡的なことにだけ興味があるのです。イエスは、「預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。」と答えただけで、何も奇跡を行いませんでした。
 イエスの最後の言葉が、そこにいた人たちを怒らせます。そして村の外の崖にイエスを突き落とそうとします。しかし、イエスを捉えることはできませんでした。イエスは宣教の道を進まれます。貧しい人たち、阻害されている人たち、拒否されている人たちへの奉仕。彼らに慰めの言葉と希望を与え、奇跡をなさいます。このように、イエスを拒否し、排除する人たちは、イエスの公生活の初めからいたのでした。

質問と祈りで終わりましょう
 今日の社会の中で、どのような人たちが、イエスと同じように迫害を受け、拒否されているでしょうか。あなたご自身も、人生のある時に、イエスと似た状況に置かれたことはありませんか。
主に祈りましょう。
 私たちがキリスト者として、イエスがなさった使命を喜びと熱意を持って自分のものとし、収束の見えないパンデミックの中でもその使命を果たし続けることができますように。
 地上の全ての宗教が、兄弟愛的に共存し、具体的な対話を持って唯一の神の御顔を探し、最も必要としている人を助けることができますように。