カトリックさいたま教区/CATHOLIC SAITAMA DIOCESE

司教メッセージMESSAGES

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年間第16主日 ルカ 10・38-42

2022.12.17 (日)
兄弟姉妹のみなさん、
 すでに真夏のような、暑さとなりました。湿度が高く、ジメジメした独特な日本の気候。今年は梅雨の時期が短かった。しかし最近は、日本のさまざまな地域で大雨が降り、洪水や土砂崩れの恐れもあります。私たちは、地震だけでなく、他の自然災害時の一時的避難にも備えておかなければなりません。
 元首相、安倍晋三さんの銃撃から1週間以上が経ちました。安全で平和な日本にとって、思いがけない出来事、考えられない出来事でした。故人の冥福を祈りましょう。そして、この国に来る移民移住者に開かれ、正義と助け合いに満ちた社会を築くために、力を尽くしましょう。
 そのような意味で、この日曜日の神の言葉は「歓迎」について考えるための手助けになるのではないでしょうか。

第一朗読(創世記18・1〜10a)
アブラハム、三人の客を受け入れ、祝福される
 第一朗読の箇所はアブラハムの家庭の様子を紹介しています。アブラハムはテントの前に座っています。三人の客がやってきます。アブラハムはすぐ彼らを受け入れ、あたたかく迎えます。正午の時間にテントの前に現れた三人をどのようにもてなしたか。彼の歓迎は、私たちにとって驚きです。
キリスト教の伝統では、この三人の客は神であると認めています。アブラハムの歓迎によって神は彼を祝福し、不妊の妻のサラが身籠ることになります。
 この箇所のもつ、三つの基本的な特徴を確認することができます。アブラハムの信仰は、主が来ていることに気づき、主を受け入れて歓迎し、その結果、アブラハムとその家族と神の、家庭的で親しい関係が生まれています。
 この美しいモデルは、私たちの家に神を受け入れるように、という招きです。アブラハムのように、私たちの生活に神を受け入れずに歩むことはできないことに気付かされます。

福音朗読(ルカ10・38〜42)
マルタとマリアの姉妹はイエスを家に迎え入れる
 第一朗読のコメントと関連して、ルカ福音書が私たちに語っていることを見ていきましょう。
 ルカが紹介しているのは、女性たちもイエスの弟子であるということ。この物語を私たちは何度も聞きました。しかしもう一度注目して、新たなメッセージを見出すようにしましょう。パンデミックが続き、ロシアのウクライナ侵攻が続く中、私たちは どう生きていけば良いのでしょうか。
 私たちの前に家族の様子が見えます。その場面では、イエスが友である二人の女性の家を訪問し、マルタとマリアはイエスを迎え入れます。マルタは客をもてなすために忙しくしています。イエスは彼女に注意します。「色々な事で心を乱しているから落ち着かない」。マルタは手伝う人を見つけられません。妹はイエスの足元に座って、その言葉を聞くことに集中しています。

ルカ福音史家の意図とメッセージ
 福音史家は、二人の姉妹のコントラストを意図的に大袈裟にしています。実生活では二つの姿勢が混じり合っていることが多いでしょう。私たちの家庭に客が来ると、この二つの姿勢が混ざっています。確かにある人はマリアよりマルタのように、その役割を果たさなければなりません。そうでなければ食事なし、あるいはお茶やコーヒーなし、になってしまいます。しかし、マルタだけでは、客にテレビを観させたり、そこにある雑誌を読ませることになります。
 ルカがこの姉妹の様子で強調したいのは、神の言葉を聞くことです。瞑想より行動の価値ということを否定しません。自分のキリスト教共同体の環境を考慮して、そこに行動と、耳を傾ける、活動と瞑想、その二つの間の緊張をルカは見ていたのです。おそらく共同体の中でのインテリの人たちは、どちらの姿勢が優先的であるかを議論したのではないでしょうか。

 教会の歴史には、いつもこの緊張状態がありました。多くの場合は活動主義に陥ったこと。共同体の実際のニーズを見る前に活動主義に陥りました。それは聞くことの不足、瞑想の不足、考察の不足になります。それは共同体に実際、何が起きているかを見極めることの不足でした。
 それは私たちの主任司祭、教区に対する呼びかけとも受け止められます。多くは、二つかそれ以上の教会の世話をしています。日曜日は、一つのところから別のところへ、2回目か3回目のミサに間に合うように走らなければなりません。自分の時間を整えて、月一回ミサの後でそれぞれの小教区の集まりをするために、そのブロックの司祭たちに助けを求めたことも、私は知っています。この分かち合いと、お互いの状況を聞く時間なしでは、共同生活を向上させることはできません。なぜなら、私たちの小教区は、工場や仕事の会社ではなく、復活されたイエスの証人として信仰を生きる共同体であるからです。
 第一朗読のモデルのアブラハムのように、お客さんを迎える時には、その人たちを通して神が訪れていることを忘れないようにしましょう。
 確かに何もなしに迎えることはできません。マルタのように、どのようにもてなすか心配しなければなりませんが、ルカが強調しているマリアの姿勢を忘れてはいけません。お客さんと一緒にいること。しかし、私たちが注意しなければならないことがあります。マルタをあまり怒らせないように。重荷を軽くしてあげる、あるいは手分けしてお客さんをもてなすのです。

祈りで終わりましょう。
・ 神の教会のために。
奉仕的であると同時に、マリア的であり、祈り、瞑想的であるように。主に祈りましょう。
・ 祈りの価値を再発見した多くの共同体のために。
実際の奉仕と人々への助け合いに繋がりますように。
・ 奉仕と助け合いを生きている人たちのために。
祈りによって、貧しい人の顔に神をみいだすことができますように。