司教メッセージMESSAGES
受難の主日(枝の主日) ルカ 23・1-49
2022.12.10 (日)
兄弟姉妹のみなさん、今日は主の受難の主日です。伝統的には、枝の主日と言われています。弟子たちと一緒に、大勢の群衆に囲まれて、イエスが最後にエルサレムに入られた時のことが書かれています。これはルカ福音書の主の受難の箇所で、イエスの十字架の死に至るまでの聖週間全体の情景がそこにあります。
司祭は、ミサで赤い祭服を着ます。それは、ピラトの命令によって鞭打たれ、ゴルゴタで十字架に掛けられた、イエスの殉教の死を強調するためです。
枝の祝福
今日の典礼のはじめに、枝の祝福が行われました。ウイルス対策による人数制限によって、今日のミサに参加できなかった方々のために、祝福された枝が教会に置いてあります。家の目立つところに置くように、どうぞお持ち帰りください。
通常は枝の祝福の後に、屋外から祭壇に向かって小さな行列をしますが、昨年同様に今年も、感染防止のために行列をすることができませんでした。
今年、イエスのエルサレム入城の福音はC年になっています。ルカ福音書です。イエスがエルサレムに入城された時のことを、他の福音史家が語っていることも含めて、話します。それは、さらに全体的な視野で見るための助けになると思うからです。この黙想のためにベネディクト16世が勉強し、黙想し、書いた、ナザレのイエスの本の第3章を参考に、お話します:「エルサレムの入城から復活へ」(Ediciones Encuentro、Madrid、2018)。
福音朗読(ルカ22・14−23・56):エルサレムへの入城
イエスは、公生活を始めてから、何度過越のお祝いをなさったのでしょうか。
ヨハネ福音書によると、イエスは公生活の中で過越のお祝いを3回されました:一度目は、神殿から商人を追い出した時(ヨハネ2・13−25):もう一つはパンの増加の時(ヨハネ6・4):そして最後は死と復活の過越の時で(ヨハネ12・1、13・1)、これがご自分の偉大な過越になりました。キリスト教のお祝いの原点はここにあります。キリスト者の過越です。
他方、共観福音書(マタイ、マルコとルカ)は、十字架の死と復活、一つの過越だけを伝えています。ルカは、ガリラヤからエルサレムに旅するイエスの道を、唯一の上りとして描いています。
命を献げるためにガリラヤからエルサレムに上る
この上りは、まず地理的な意味です。ガリラヤ湖は、海面より約200メートル下にありますから。エルサレムの平均海抜は約760メートルです。共観福音書はこの上りの段として、それぞれ受難に関しての内的な上りも含めて、イエスの三つの預言を伝えています。内的上り、それは外的上りの流れに沿っています。申命記に描かれているように、神がご自分の名を置くために選ばれる場所、神殿への道です(申命記12・11、14・23)。
イエスの上りの最後の段階は、十字架上でご自身を献げること。旧約における動物の生贄の代わりになります。ヘブライ人の手紙で、この上りは、人間が造った住まいではなく、天、すなわち神の前に上る(昇天)こと、とされています(ヘブライ9・24)。これは神のみ前にまで上る昇天、十字架を通過し、すなわち、最高の愛による上りで(ヨハネ13・1)、これが神の誠の住まいへの道です。
イエスの巡礼の目の前の目標は、エルサレムです。聖なる都とその神殿へ、そして、ユダヤ人の過越。ヨハネが語っているように(2・13)、イエスは十二人の弟子たちと一緒にこの旅をしていますが、しかし徐々に大勢の人のグループがそこに加わってきます。マタイとマルコは、彼らがエリコを出た時、大きな群衆がイエスに従っていたと言っています(マタイ20・29、マルコ10・46)。
目が見えないバルティマイを癒す(マルコ10・46−52)
この旅の最後の段階で、起きようとしている一つの出来事に期待が高まっています。そして、ある意味では新しい形で、同伴している人たちの中心にイエスを置いています。道端に座っている一人の盲目の物乞い、バルティマイは巡礼者の中にイエスがいると知り、叫び続けました。「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」(マルコ10・47)。周りの人々は彼を黙らせようとしますが、彼は叫び続けました。最後にはイエスの目に留まり、近づいたイエスは答えました「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」バルティマイは見えるようになり、エルサレムに向かっている巡礼に加わりました(マルコ10・52)。突然、ダビデのテーマ、メシアニズム的希望が群衆を捉えました。この道を一緒に旅しているイエスが、もしかしたら新しいダビデではないか、聖なる都に入ることによって、彼の時が来て、ダビデの王国を再建するのではないか、と考えました。
上るための準備:イエスが乗るロバ
イエスが弟子たちと準備されることで、期待が高まります。イエスはベトファゲとベタニアからオリブ山に移動し、人々はメシアの入城を待っていました。先に弟子たちを送り、つながれているロバ、まだだれも乗ったことのない子ロバを見つけるであろう、と言われました。それをほどいて、引いてきなさい。もし、だれかに訳を聞かれたら、「主がお入り用なのです」と答えるようにと(マルコ11・3、ルカ19・31)。弟子たちはロバを見つけ、予想通り、ロバを連れて行く理由を問われました。そしてイエスに命じられたように答え、許されました。このようにイエスは借りた子ロバに乗って町に入りました。すぐ後に、ロバは持ち主に返されるでしょう。
子ロバをイエスのもとに引いて行った時、思いがけないことが起きます。弟子たちはロバの上に自分の服をかけると、イエスがそれに乗られました。マタイとマルコはただ「乗った」と書いています(マタイ21・7、マルコ11・7)が、ルカは、「お乗せした」と書いています(ルカ19・35)。この表現は列王記上に使われています。ソロモンがダビデの王座に着かれた時ご自分のラバに乗せ、預言者ナタンのところへ行き、そこでイスラエルの新しい王として油を注がれました(列王記上1・33)。
イエスと一緒にエルサレムに来た巡礼者は、弟子たちと同じ熱意を持つようになります。そして、イエスが通られる道に自分たちの服を敷きました。木の枝をとって、詩篇118の言葉を叫びました。イスラエルの巡礼者の、典礼の祈りの言葉。彼らの唇では、メシアニズム的な宣言になります。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。」「我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高いところにホサナ。」(マルコ11・9〜:詩篇118・25〜)。
聖なる週と呼ばれているこの一週間、イエスの死に至るまでの最後の日々の箇所を読んで黙想するようにしましょう。苦しんでいる人、暴力や戦争のため、特にウクライナの戦争で苦しんでいる人々のために心を合わせながら。自分の土地をミサイルや戦車に破壊され、数百万人が近隣の国に非難しなければならないのです。この受難を前にして、世界中で苦しむ人々のために祈りましょう。そして、日本に避難してくる人たちを、私たちの共同体に受け入れる準備をしましょう。