カトリックさいたま教区/CATHOLIC SAITAMA DIOCESE

司教メッセージMESSAGES

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聖木曜日(主の晩さん) ヨハネ 13・1-15

2022.12.14 (木)
兄弟姉妹のみなさん、
 ご聖体の制定を祝う聖木曜日のミサでは、第一朗読と福音に注目します。この黙想によって、ユダヤ教の過越の意味、どのように始まり、それをどのように祝わなければならないか、を深めます。その後で、イエスが最後の晩さんで行われた、ご自分の死と復活による、独特の新しい過越を強調したいと思います。

第一朗読(出エジプト記12・1−8、11−14):過越の夕食にいついての決まり
 第一朗読の出エジプト記で、イスラエルの過越の祝いについて、モーセの法が記されています。その始まりは遊牧民の春のお祝いであった可能性がありますが、イスラエルにとっては、記念、感謝、と同時に希望のお祝いに変わっていましいた。
 過越の夕食の中心に、特定の典礼の規範に従って、エジプトの奴隷からの解放のシンボルとしての小羊がありました。この理由で「過越のHagadá」があります。これは、そこにいる誰かがエジプトからの脱出の物語を語ることが、小羊の食卓に含まれていたということです。この過越の語りでは、神ご自身がご自分の力強い腕でイスラエルを解放されたことが強調されています。
 彼らの先祖のアブラハム、イサクとヤコブの神、神秘的で隠れている神が、さまざまな力を手にしていたファラオより強かったのです。神ご自身がその手でご自分の民の歴史を握られたことをイスラエルは忘れてはなりません。そして、この歴史は、常に神との交わりに基づいていました。イスラエルがこの出来事について心に留め置かなければならないのは、それが単なる過去の出来事ではなく、常に神が共にいてくださることを示す出来事だったからです。
 記念の儀式には、詩篇からとった賛美と感謝の言葉がたくさんあります。感謝と神の祝福の頂点は「berakha」にあります。これは、ギリシャ語で「eulogiaあるいはeucaristia」です。神に献げたものは、献げる人にとっての祝福に変わっていました。
 すなわち、神への献げ物は、人に祝福として戻ってきます。この全てが橋をかけています。過去から現在、そして未来へ:まだイスラエルの解放は完成されていない。大きな力ある者たちの勢力が引っ張りあっている緊張感の中に、イスラエルは小さな民として苦しんでいました。
 過去においての神への感謝の記憶は、同時に願いと希望に変わっていました。「主よ、始められたことを完成してください。最終的な自由を与えてください。」

福音(ヨハネ13・1−15):主の晩さんの夕べ
 イエスは、さまざまな意味を持つこの夕食を、受難の前夜にご自分の者たちと共に祝いました。この背景の中で、新しい過越を理解することができます。eucaristia(ユーカリスティア)を通して与えられた、新しい過越の意味です。
福音史家たちの語りには表面的な矛盾があります。ヨハネ福音書と、そしてもう一方ではマタイ、マルコ、ルカが言っていることは異なっています。

1)イエスは、小羊が神殿で献げられた時刻に死ぬ
 ヨハネによると、イエスが十字架で亡くなったその時刻、神殿では過越の小羊が献げられていたのです。イエスの死と小羊の犠牲が、一致していました。しかし、これでは、イエスは過越の前夜に亡くなったということ。従って、ユダヤ教の過越の夕食を祝うことはできなかったことになります。少なくともこのような矛盾が現れます。
逆に、共観福音史家(マタイ、マルコとルカ)によると、イエスの最後の晩さんは過越の夕食だった、とあります。その伝統的な形にイエスがご自分の体と血を献げる、新しいものを導入されたと。
 この矛盾は、数年前までは解決できないように思われていました。多くの聖書学者は、ヨハネは歴史的な実際の日付ではなく、シンボル的な日を選んで伝えたかった、と考えました。それは、最も深い真理を明らかにするためであり、私たちすべてのために血を流された、新しい誠の小羊を伝えたかったからです。
 もう一方、クムランの書物によって(1946−1956)、説得力のある、可能な解決に導かれます。これは皆から受け入れられてはいませんが、非常に可能性が高いように見えます。
 ヨハネは歴史的に正確さを伝えたと今は言えます。イエスは、実際に過越の前夜に血を流された。小羊が献げられた時刻に。にもかかわらず、クムランの暦に基づいて弟子たちと夕食をなさった。すなわち、少なくとも1日前に小羊なしで祝いました。クムランではヘロデの神殿を認めず、新しい神殿を待っていました。

2)イエスの最後の晩さん、新しい過越しの晩さんに小羊は無く、イエスご自身が小羊
 従ってイエスは過越を小羊なしで祝い、その代わり自分自身を献げました。ご自分の体と、ご自分の血、従って、ご自分の死を前もって伝えたように、彼の死は予期され、早まったのです。「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。」(ヨハネ10・18)。弟子たちにご自分の体と血を与えた時、先に言われたことが実現しました。イエスご自身が、命を与えた。このように、その時、昔の過越が本当の意味をもったのです。
しかし、小羊と神殿なしで、それは行なわれた訳ではなく、彼自身が「待ち望んでいた真の小羊」でした。洗礼者ヨハネが、イエスの公生活の始めにそれを宣言したように。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」(ヨハネ1・29)
 そして、彼ご自身が、神が住われる真の生きた神殿であり、私たちは「霊と真理」によって賛美することができる(ヨハネ4・23−24)ようになったのでした。
彼の血、彼の愛、神の子であり、同時に私たちと同じまことの人間であるものの血が、私たちを救うことができます。私たちを救うのは彼の愛、自由に与える愛。郷愁からくる動作、無実で汚れない小羊の生贄は効果がないように見えますが、小羊と生きた神の神殿になったものによって私たちのために行われることで、答えが見つかります。

祈り
最後の晩さんで行われた神秘、そして、私たちが祝っているミサ、ユーカリスティアの深い神秘を私たちが理解できるように助けてください。ヨハネ福音史家が語っている洗足式のできごとを、私たちが忘れないように:ミサに参加する人は、神と隣人に対する愛を自分の生活から切り離してはなりません。ヨハネの手紙の中でもっと強く言われているように「『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。」(ヨハネの手紙一4・20)。