カトリックさいたま教区/CATHOLIC SAITAMA DIOCESE

司教メッセージMESSAGES

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復活節第3主日 ヨハネ 21・1-19

2022.12.1 (日)
兄弟姉妹のみなさん、
 今日は復活節第3主日をお祝いしています。第一朗読と福音では、復活されたイエスに直接出会った人たちの、福音宣教を始めた当初の姿が描かれています。マグダラのマリアと、イエスの他の弟子たちに起きたこと、復活されたイエスとの出会いを、過去のこととして扱うのではありません。ダマスコの道でイエスに出会ったパウロのように、幾千万人の男女が歴史の中で復活されたイエスに出会い、世界中で多くのキリスト教共同体を生じさせたことが重要なのです。イエスとその教会を信じる私たちの信仰は、復活されたイエスに出会った人たちの、その深い信仰によって養成されました。その人たちは、預言者やさまざまな旧約の書物で予め宣言されていた、人類の救い主であるイエスを証ししました。

第一朗読(使徒言行録5・27b−32、40b―41):使徒たちは、私たちの間に生きている復活されたイエスを、勇気をもって証しする。
 教会は、復活節の日曜毎に、使徒たちの宣教、特にペトロの宣教の姿を紹介しています。今日読まれた箇所で使徒たちは、最高法院で取調べを受けています。
 使徒たちの宣教が記していることは、復活されたイエスが生きている証しです。私たちは、あの当時の文化的、宗教的背景の中で、勇気をもって神の国の主のプロジェクトを証ししていることを意識しなければなりません。復活されたイエスが、共同体の中で、今働いていることが重要です。
 復活は、歴史的な証拠に欠けています。しかし、信仰者は証拠を必要としていません。イエスが復活されたものとして、私たちの間に生きていると信じる共同体そのものが、確かで圧倒的な証拠です。復活の信仰を基にして構成された共同体が、生活を通して、それを証しするのです。初代の弟子たちは、イエスが誰であるか、またその名によって働きを続けるようにと言われたことを、聖霊降臨で聖霊に照らされて、理性と心が全面的に変わるまでは理解できませんでした。そのように照らされたことで、自分たちがナザレのイエスの弟子であったことからの迫害を恐れなくなりました。同じ霊に促されて、またイエスの命令に従って、イエスが誰であるか、その福音をあらゆるところで広めました。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16・15)。イエスが捕えられた時、逃げたあの人たちが、今は信じられないほどの勇気をもって福音を伝えています。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。」(使徒言行録5・29)。
 このような状況は、教会の歴史を通して何度も繰り返されることです。今日もまた。イエスとその福音のために、拒否され、憎まれる多くの人たち。今の時代でも、イエスに従い、福音を宣言することによって殉教者として命を捧げる人がいます。

福音(ヨハネ21・1−19):ティベリアス湖での復活されたイエスの3回目の出現と不思議な漁。
 私たちは、たった今、ティベリアス湖畔でのイエスの3度目の出現と奇跡的な漁についての朗読に耳を傾けました。
 イエスが十字架に架けられた後、弟子たちは自分の故郷で漁師として働いていました。すなわち、イエスに出会う前の生活に戻っていた弟子たちにとって、理解するのはとても難しい出来事でした。すべてが「終わった」と思われていた時、エマオの道での出来事と同じように、イエスは友のところへ再び出向いて行きました。ガリラヤ湖の辺りで、夜が明けた頃、一晩中漁をしたけれど一匹も魚がとれなかった時に彼らに出会います。網は空っぽで、魚は一匹も入っていませんでした。
イエスに声をかけられ、イエスと共に旅をし、イエスからたくさんのことを聞きながら、イエスを本当には理解できていなかった彼らは、空になった網の出来事を通して、再び、そしてやっとイエスに出会いました。

「夜明け」:神が働かれる時(ヨハネ21・4)
 夜が明けたころ、イエスは彼らの元へ出向いて行きましたが、彼らは、すぐにはイエスだと分かりませんでした(ヨハネ21・4)。
 聖書ではしばしば、夜明けは神の特別な訪れを示しています。例えば、出エジプト記にある「朝の見張りのころ、主は火と雲の柱からエジプト軍を見下ろし、エジプト軍をかき乱された。」(出エジプト14・24)や、ヨハネ福音書に記された「マグダラのマリアと他の婦人たちは、夜明けに復活された主に向かって、墓へ走って行きました」(ヨハネ20・1)のように。
同じように、今日の福音の箇所では、夜が終わり、漁をして疲れ、何もとれなかったことでがっかりしている弟子たちに、主が言われました。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」(ヨハネ21・6)
 普通、夜間にとれる魚は暗い時に網にかかります。朝方に、水が透明になっている時ではありません。しかし弟子たちはイエスを信じ、結果は奇跡的に大漁でした。あまりにも魚の数が多かったので、引き上げることができなかったほどに(ヨハネ21・6)。
 その時ヨハネは、愛に照らされてペトロに言いました、「主だ」と(ヨハネ21・7)。イエスに愛された弟子(信仰者のシンボル)の鋭い見解が湖の辺りにいる師に気付きます。「主だ」という自発的な信仰宣言は、私たちにとっても、復活されたキリストが人生の主であることを宣言するための招きです。

メッセージ:パンデミックの後、夜が明けている
 再び主が私たちに言っています。「網を打ちなさい、そうすれば…」と。
 私たちも、主の言葉を信じなければなりません。なぜなら、私たちの多くの共同体では、この長いパンデミックの期間中、ほとんど魚がとれていませんでしたから。
 もしかしたら、私たちは網を入れなかったかも。それは無駄なことと思っていたから。私たちは新たな夜明けの前にいます。よく見れば、このパンデミックの期間は全て無駄、無意味ではありませんでした。復活されたイエスの現存はいつも私たちの生活の前にありました。私たちの家族、そして共同体に。感染防止の決まりを尊重しながらミサを行うことができた時、確かにそれを感じましたから。

 信仰の灯りを保つために、私たちは多くのことを学んだのではないかと思います。個人的あるいは家族での祈り、ロザリオの祈り、オンライン形式のミサ。そして、私たちは、困っている人を助けるために寛大であったこと。病人や、亡くなった人たちのために祈り、食べ物や医療を分かち合うこと。私たち信徒の多くは、ミサ以外の時にも教会で祈りました。時に、それは聖櫃の中にいらっしゃるイエス様に会う必要があると感じていたからでしょう。
 このように私たちは、生活の中に現存している、復活されたイエスの真の証し人であることに、もっと確信をもつことができたのではないかと思います。そして、まだ福音を知らない人々に述べ伝えるために派遣されていることに。