カトリックさいたま教区/CATHOLIC SAITAMA DIOCESE

司教メッセージMESSAGES

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主の昇天 ルカ 24・46-53

2022.12.29 (日)
兄弟姉妹のみなさん、
 今日、カトリック教会は主の昇天の主日をお祝いしています。戦争、特にロシアがウクライナに侵攻したことによって、人類はさらに危機的で壊れやすい状況の中に生きています。それはもう2ヶ月以上続き、ヨーロッパだけでなくアジアやアフリカにもその緊張感が広がっています。ロシアの力によって、ウクライナで収穫された麦の輸出が阻止され、幾万人の人たちの食料が不足するリスクをおっています。イエスの昇天をお祝いしているこの日曜日に、教会と人類に対して神様は何を求めているのでしょうか。

 この状況を前にして、誰も完全な解決方法をもっていません。新型コロナ・ウイルスによるパンデミックも同じなのですが、神さまのお陰で感染が落ち着き、ワクチンや健康管理によって人類の大部分がこのウイルスと共存する方法を見つけつつありますが、多くの貧しい国々では、未だに不安定な状況が続いています。コロナ・ウイルスは全ての人を攻撃しますが、その注意と手当てを受け入れる姿勢には、先進国とそうでない国、裕福な人と貧しい人の間にも格差があります。

ブエノスアイレスの日本人共同体との出会いの思い出
 2012年5月にアルゼンチンを訪問したことを思い出します。5月8日はルハンの聖母のお祝いでしたが、その日の正午に、2千人程を収容できる大聖堂でミサを司式しました。そして東日本大震災の、津波の被害を受けた地域の人々が直面している現実について話しました。国際的、国内的なボランテイアの動きについて、特に強調しました。さまざまな宗教グループや、日本カトリック教区の助け合いで、現地のニーズに応えていること。福島の原発事故の放射能が起こしたパニック、そして多くの外国籍の人たちが自分の国に戻ったことなど。ミサの後、挨拶をしたり祝福を願うために人々の長い列ができました。テレビで観ているだけのものを生の声で聞いて、心を動かされたのでしょう。

 そして、昇天のお祝いの日曜日、ブエノスアイレスのカトリック日本人会の人たちが集まる、レデンプトール会が司牧している、ビクトリア小教区の教会でミサがありました。
そのときのミサの説教の一部をまだよく覚えています。主の昇天のお祝いのメッセージとして、それを分かち合いたいと思います。
「イエスはどこへ行ったと言っていますか?」という質問ではじめました。そして続けました。「ああ、皆さんも私と同じように、頭の中にイエスがゆっくりと天に上っていくイメージを描いているのではないでしょうか。雲に覆われて見えなくなる、月へ打ち上げられるロケットのように。もし私たちがそこにいたなら、空を見上げて、イエスがどこに消えたのか思い巡らしていたのではないでしょうか。」と。
 みんなが頷いていました。しかし大事なことを明らかにしなければなりません。ですから私は続けました。イエスは、私たちと離れるために逃げたような印象を与えていたかも。特にこの世には多くの苦しみ、痛みなどが終わることなくありますから。

 ここで聞く人たちの緊張が高まりました。イエスが天国へ上ったのは、私たちから逃げるためではありません。この世には自然災害や戦争があり、私たちを涙させます。幾千人の人々が生きるため、または自分と子どもたちの良い将来のために、移動しなければならないのです。
いいえ、イエスは私たちから逃げて隠れたのではありません。そうではなく、もっと私たちの間、この世に入られました。そして、正義と助け合いの世界を築くために働く人々を通して、イエスは私たちの間でご自分の現存を現しています。特に最も貧しく弱い人のために。このコメントの後、使徒言行録と今日の福音書を読みましょう。ルカが二つの書物を通して、昇天ついて書いていますから。

第一朗読(使徒言行録1・9−11)
 使徒たちが天を見ているうちに主が離れて行き、白い衣を着た二人の人が現れ、彼らに言いました。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。」(使徒言行録1.10−11)

福音(ルカ24・50−53)
 そして福音はそれを肯定します。最後の出会いの場面でイエスは述べました。「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。」(ルカ24・50−53)

復活されたイエスの現存を発見し、その証人となるようにとの教皇の招き:「balconear」にならないように
 教皇フランシスコは2013年、教皇職を始めた時、いくつかのユーモアある言葉と庶民的な表現を使い、有名になりました。たとえば、洗礼を通して、キリスト者の使命を具体的に生きるようにと、教皇は次のように呼びかけられました。
「皆さん、思い出してください。その一つは私の心に最も響く、良い表現で、それが実現するのを何度も見た言葉で、「balconear」(バルコニーに留まり、降りてこない人)と言います。この言葉を耳にすると、私はすぐ、行列のことを思い浮かべます。家にはバルコニーがあります。その下の道を奇跡の主、あるいはマリアやその町の保護の聖人の像が通ります。みんな、特に女性たちが良い服を着てバルコニーに出て、人々が通るのを見ます。上から挨拶し、花を投げたり、子どもたちにお菓子を投げたり・・・しかし・・・女性たちはバルコニーから下りません。ただ、そこから聖なるご像が通るのを見ます。自分たちのエレガントな洋服を見てもらいたいのです。もし、そこから下りて行列に参加するのであれば、「balconear」をやめたことになる。しかし、バルコニーに留まり、降りて来ないなら、責任を取らず、祈りながら道を行く人たちに触れず、服も汚さないでしょう」と。

 教皇フランシスコは、苦しみ、助けを必要としている兄弟たちのために、バルコニーに留まらないように招いています。このバルコニーのウイルスに感染しないようにしましょう。

 私たちの小教区に助け合いが成長し、広がり、無関心に打ち勝ちますように。
 忍耐を持って子どもたちを育てましょう。困っている人たちに近づき、自分の貧しさの中からも、自分より持っていない人に分かち合うことができる、助け合いの姿勢を持つように。そのように行動すると、私たちの間にいるイエスの現存を発見することができます。

 この昇天の主日をもって、来週の日曜日の聖霊降臨のお祝いの準備の週に入ります。
教会全体と私たち皆に、ご自分の霊をおくってくださいますように。主に願いながら終わりましょう。聖霊よ、私たちの深いところまで来てください。そして力づけてください。パレスティナで弟子たちと始めたイエスの使命を、勇気をもって続けることができますように。
聖霊きてください。