カトリックさいたま教区/CATHOLIC SAITAMA DIOCESE

司教メッセージMESSAGES

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復活節第6主日 ヨハネ 14・23-29

2022.12.22 (日)
兄弟姉妹のみなさん、

 5月は待ちに待った月、あらゆる面で心地よく、美しく過ごしやすい、待ち遠しい月です。日本では、特に、花が彩り豊かになります。ツツジ、バラ、スイトピーなどの花が見てほしいと招いています。そして、木や、たくさんの植物の新芽の鮮やかさが、山や平地の景色を変えています。

 典礼において5月は、いつも復活節、「アレルヤ」の時です。キリストの復活の神秘の時、教会の上に聖霊が降り、その力によって教会の誕生を待つ時です。
 教会の伝統はこのような自然と典礼の背景に調和し、5月を聖母マリアの月としています。マリアは、イエスを信じている新しい共同体に同伴します。神の言葉を読むことよって、イエスの教会が世界に広がっている共同体と共に、どのように、常に回心しなければならないかを発見することができます。それぞれの時代において福音を新たにし、この教会の創立者であるイエスに心を合わせて生きて行かなければなりません。

第一朗読(使徒言行録15・1−2、22−29):全ての人に開かれているキリスト教
 使徒言行録は、使徒たちと、ある人たちとの議論の対立について語っています。それは、「割礼を受けていない人たちは、神の国に入れない」という決まりについてでした。割礼は男の子が生まれて8日目に行われていました。この儀式によって祝福され、選ばれた神の民の一員として、神の契約に参加する者になったことが保証されます。伝統に基づくと、割礼を受けていない男は全員ユダヤの地から追い出されました。それは神の約束に忠実でなかったから(創世記17・9−12)。ユダヤ人にとって割礼の儀式は、文化的、宗教的な意味を持っていました。女性を排除する、歴史的、文化的な重みに関連していました。女性は市民として数えられることはなく、社会的公生活に入るための儀式に参加できなかったということです。
 初代の教会は、この割礼の儀式がユダヤ人と異邦人、男と女を差別することに気づいたのです。あの時代の教会の重要な責任者たちは、異邦人の世界に福音を届けた宣教師たちの直感を認めました。文化的に異なった背景の中、割礼は女性の阻害に繋がります。そしてまた、ユダヤ教でないところからから回心した人たちにとって、理解できない押し付けでした。

 教会が行った、この識別と決断は、今日の教会にとっても素晴らしい学びでした。しかし、今日の教会には、さまざまな言葉や文化の違いの中で、差別があり続けています。今こそ、信仰の受肉、文化の統合の真の意味を掴む必要があります。例えば、同じ言葉であるスペイン語を話していても、ラテン・アメリカにはスペインとは違う習慣があります。アメリカ大陸の発見の後(1492年)長い年月の統合のプロセスがありました。聖フランシスコ・ザビエルの来日後にも、同じようなことが起きています。信徒発見のその後(1865年)、日本でも信仰の受肉の過程が続いています。それは自分たちの持っていた文化や言語を押し付けるのではなく、それらの違いを超えてなされなければならないのです。すなわち、言語をはじめ、現地の人々が大切にしてきた習慣や価値観、文化などを理解し、受け入れ、学ぼうとする姿勢から始まります。日本に来られた宣教師たちはみな忍耐を持ってキリスト教が日本文化に土着するように歩んでこられたに違いありません。

第二朗読(黙示録21・10−14、22−23):新しいエルサレムと、女性と外国人に開かれている神殿
 ユダヤの伝統において、ユダヤ人でない人を阻害していることを非難している様子が、黙示録に書かれています。ヨハネは啓示の中で、天から降る新しいエルサレムを見ました。これは花婿である、復活されたキリストの飾りのように。初代のキリスト教は、神殿で神と関係を持つことができるのはユダヤ人男性だけで、外国人や女性には許されない、というユダヤ教を非難しています。
 しかし、ヨハネが黙示録の中で描いている新しいエルサレムは、エルサレムの神殿を必要としていないことに、私たちは惹きつけられます。それは、どんな民族、宗教であっても、神が男と女の心の中にいることが書かれているからです。

福音書(ヨハネ14・23−29):教会と世界においての、イエスの新しい現存
 ヨハネの福音書では、イエスは最後の晩餐の席で、弟子たちとの重要な絆について強調しています。それは愛です。
 タデオのユダがイエスに質問しています。「主よ、わたしたちにはご自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」。イエスのメッセージ、神の国のプロジェクトはこの世界のためで、それは明らかです。しかし、ヨハネにとっての「世」というカテゴリーは、神の計画に反対するものです。従って、それは、明らかにイエスを拒否することになります。
 イエスは、長い間弟子たちと共にいることができないと知っています。しかし、身体的に共にいるのではなく、他の方法があることも知っています。ですから、彼らに対して準備をしていきます。物質的な体験ではなく、他の次元、力、光、慰めと導きによって、しっかりと立っていられるように、そして日常生活を忠実に歩み続けること、そのための力になるよう、聖霊を約束します。人生と、そのプロジェクトの魂とエンジンのように。聖霊が弟子たちと共同体を同伴できるように。
最後に、平和の賜物をお与えになります。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。」と(27節)。霊的遺言として、イエスに現された父の希望が世に現存できるように、弟子たちが探し、育てなければならないのです。聖書とキリスト教生活の中のプロジェクトでは、平和は武器と暴力がないだけのものではありません。平和は、人間の全ての側面を含んでいます。これがイエスの弟子たちに与えられる務めです。人生を動かす真の魂は、愛でなければならない。ですから、「愛だけが信仰に値する」ことを再発見しなければなりません。

祈り
・ 全ての教会のために。常に福音の根本を判断し、単なる文化的、西洋風、偶発的なものと区別できますように。
・ 神である父よ、知恵の霊を私たちの上に送ってください。愛だけが信仰に値することを発見できますように。それによって、それぞれの宗教の境を超えて、民族的、文化的で偶発的なものを区別し、あなたの愛と、人間的な兄弟愛の普遍性に開かれますように。